讃岐国山田郡に所在する弘福寺(川原寺)領の寺田を示した田図で、天平七年(七三五)に作成された原図を平安時代後期に書写したものである。楮紙三紙を継いで書かれ、第一・二紙は料紙を縦長に用い、左上に「□【(山)】田郡□【(林ヵ)】郷船椅□【(里)】」、右端に「山田香河二郡境」とあり、南を上として、南北二か所に分かれる寺田をそれぞれ方格の条里の坪で示し、各坪に地目、面積、地品、直米を記す。図中、家地は赤色、畠地は茶色に彩色し、畠地等を田に墾開した箇所は茶色の上に白緑で彩色する。南、北それぞれ図の下に田積、直米、田租等を集計し、北部分の集計についで南北の総計を記す。第三紙は料紙を横長に用い、「天平七年歳次乙亥十二月十五日田圖定縁勝」と本図の勘定年紀を明らかにする。また、各紙継目および田積等集計部分には「弘福之寺」朱方印計十三顆を捺している。
本図は、料紙、書風等より、平安時代後期の書写になるものと認められる。弘福寺は平安時代に東寺の末寺となり、十一世紀後半にはその寺領も東寺の直接支配下に入り、それと期を同じくして、その所領の確認、復興が行われているから、本図もその時期に書写されたものと推定される。本図の内容は、他の史料と矛盾がなく、また田積に「束代」の単位を用いるなど古態を存しており、奈良時代の原図の内容をよく伝えた田図として、歴史学、地理学研究上に貴重である。