画面向かって左に向いて坐し髪を梳る姉妹らしき二人の女性を描いている。髪を梳らせる女性は上半身裸体で、下半身を薄緑色の湯巻で足先まで包んで正座する。正面やや下方を見つめ、背筋を伸ばし、両手は肘を浮かせて腹前に交差し、右手先は左腿の上に当て、左手先は右膝の上辺に届く。この女性の後ろに膝立ちして梳る妹らしき女性は縦縞の着物を着、左手で裸体の女性の豊かな髪を抱えるように支え、右手に持った櫛を当てている。うなじ辺りで断髪し、真剣な眼差しで櫛先を見つめている。着物は絣らしく、紺の縞の間を白と薄紅色および薄黄色とする。帯は朱地に浅葱と白の十字紋を入れた絣としている。左肩から後方は画面からはずれる。
二女性は対照的に表現されている。裸体の女性は鉄線描により必要最小限の線描で表され、唇と乳に朱具をさすほかはほとんど色を用いない。しかし、長く豊かな髪は具墨を用いて量感を出し、生え際や髪筋に繊細な毛書きを見せている。また、線描は肥痩がなく、抑制された無機的な線であるが、墨色の濃淡によって立体感や質感、形態のアクセント等を工夫している。他方、断髪の女性は着物や帯に濃彩を施し、頬にも朱を暈かし、唇も赤みをやや強くしている。これによって、両者の年齢差を示し、造形的な対照を形成している。
背景は全く描かないが、薄墨のほか微妙な色付けによって裸体の白さを強調している。
小林古径(一八八三-一九五七)は、横山大観・下村観山・菱田春草らが築いた日本美術院を引き継ぐ、再興日本美術院の有力画家で、安田靫彦・今村紫紅・前田青邨・速水御舟といった画家たちと同世代に属す、近代日本画史上重要な画家である。古径は一七歳で梶田半古に入門し、叙情的な歴史画から出発して日本美術院絵画共進会に出品した。明治四十三年(一九一〇)に安田靫彦らの紅児会に参加し、大正三年(一九一四)には日本美術院同人となっている。やがて写生を重視し「罌粟」(一九二一年)のような写実的な作品を制作しているが、その翌年西洋美術研究のため渡欧し、特に大英博物館で「女史箴図」を模写したことは、古径の画風に転機を与えたといわれる。この頃から歴史画のほかに日常的な題材を選ぶようになり、画風は抒情性よりも簡潔で構築的な形式性を追求するようになっている。代表作としては、前期の総決算ともいうべき「竹取物語」(一九一七年)や、渡欧後の「鶴と七面鳥」(一九二八年)、「清姫」(一九三〇年)そして本図などがある。
本図は昭和六年、再興第一八回日本美術院展出品作で、同展随一の成果と世評高かった。本図の構想に関して、「女史箴図」中に髪を梳く図があることや、外遊中に見たエジプト美術の影響等が指摘されている。たしかに、上半身裸体で髪を梳かせている女性は彫像のようであり、交差させる両手の形などエジプト彫刻の風があり、やや不自然でさえあるが、かえってそのために厳粛な気分が生じてもいる。裸婦という官能的な画題でありながら、品格に富み謹厳な趣さえたたえており、完成度もきわめて高い。
古径や靫彦らによる、画面の単純化を推し進め、限られた線描と色彩により構築する静謐な絵画様式は「新古典主義」とも称され、同時代の画家たちに大きな影響を与えたが、本図はその代表的な作例ということができる。