新薬師寺の東隣りに建つ当寺は、真偽は不明だが、鑑真、空海が住んだとの伝えをもち(菅家本『諸寺縁起集』)、土地柄からみても創建はかなり古くにさかのぼるものと考えられる。鎌倉時代には、南都四律匠の一人に数えられた興福寺僧円晴が住み(仁治二年〈一二四一〉六十二歳没、『本朝高僧伝』)、近世の伝承では、円晴が興福寺南円堂を模して、八角宝形堂と不空羂索観音を造立したという(『奈良坊目拙解』)。円晴造立の当否はともかく、像は鎌倉時代初期の作風を示し、一端の真実を伝えたものであろう。なお八角堂は現存しないが、当寺に残る近世の境内図には、その姿が描かれている。
像は一面三目八臂の通行の形だが、文治五年(一一八九)復興造立の南円堂像とは、鹿皮の有無、第三手の位置に小異がある。いきいきとした現実感に富んだ表現は、鎌倉時代初期に康慶、運慶らの南都仏師たちが示した新様式と基本的に共通し、構造的にも等身大の像としては木寄せが細かい点に、定慶作とみられる建久七年(一一九六)頃の興福寺文殊菩薩像などと共通する特色がある。その製作はおよそ十三世紀初め頃と考えられよう。なお、素直で明るい表情や、おだやかな衣文に示されるくせのない表現は、当時の南都仏師の個性的な作品の間ではやや珍しいものであるが、むしろそこに、作者の穏健な個性を認めるべきであろう。
檜材、寄木造、漆箔、玉眼。頭躰幹部は左右二材を矧ぎ、両躰側部に厚さ二~三センチの薄材をあて、内刳りのうえ割首。面部を割矧ぐ。両足部前後二材矧。腕は肩、臂、手首で矧ぐ。髻、左右第二・三手の手首以下、腕・臂釧、持物、全体の漆箔などは後補である。
光背は檜材、大略左右二材矧。圏帯内区に花弁形を鱗状に浮彫する。周縁部亡失。台座は檜材、漆箔。受座、反花、上・中框に当初のものを残す。銅製飾具後補。