木造不空羂索観音坐像 もくぞうふくうけんさくかんのんざぞう

彫刻 / 平安

  • 平安
  • 1躯
  • 重文指定年月日:19860606
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 東鳴川観音講
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 応現寺本堂に、客仏として安置される。伝来は不明だが、伝えではこの近くにあり、廃絶した鳴河寺(善根寺)の旧仏という。鳴河寺は、平安時代、久安三年(一一四七)に興福寺権別当恵信が籠山し(『大乗院座主次第』)、中世には近くの中川成身院などと共に、興福寺末であった寺で、平安時代後期にはすでに興福寺の勢力下にあって、栄えていたものとみられる。
 像は一面三目八臂、両肩に鹿皮をまとう姿にあらわされる。この形は、藤原氏の氏寺である興福寺の中においても、北家ゆかりの像として特に盛んな信仰を集めた、南円堂本尊不空羂索観音と同一であることが知られている。平安時代後期に、藤原忠実ら摂関家の要人が、南円堂本尊をしばしば模造したことが文献にみえる。その形の一致と、興福寺と関係の深い土地での造立であることから、本像は当時の盛んな南円堂信仰の風潮の中で、その模像として造られた、類例のまれな遺品だと考えられる。
 このように南円堂像を模しながら、おだやかな垂髻の形や、やわらかい躰躯の肉取りなどには、いわゆる定朝様の影響を受けた平安時代後期の彫刻としての特色が顕著である。顎の少しとがった顔の形や、浅くしのぎ立った脚部の衣文はやや古風であるが、地理的に近い浄瑠璃寺薬師如来像(永承二年〈一〇四七〉造立説がある)のそれを、穏やかにしたようなところがあり、製作年代は十一世紀末から十二世紀前半頃と考えられる。
 檜材、割矧造、もと漆箔。頭躰幹部は一材製で、前後に割矧ぎ、内刳りを施し、割首。両足部、両腰脇、腕等を矧ぐ。躰部材と、両足、両腰脇部の内刳りが通じず、それらの接合部で材を地付まで刳り残すことは、当時の手法としてやや異色である。この技法が浄瑠璃寺薬師如来像、法隆寺に残る平安時代後期の作とみられる等身大の釈迦、薬師、阿弥陀如来像など奈良周辺の遺品に共通することは、作者の系統を考える上であるいは参考になろう。髻頂、左耳後方、右耳、左右第一手・右第二・四手の各手首以下等、及び表面の古色仕上げは後補。
 台座は木造、彩色。懸裳、蓮弁、受座以下後補。

木造不空羂索観音坐像

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