当寺講堂の本尊として祀られる檜材・寄木造り、玉眼嵌入の技法になる二臂【ひ】弁才天坐像である。本寺蔵の延宝七年(一六七九)の『河内國石川郡神下山高貴寺縁起』に本像とみられる弁才天像が描かれているが、それ以前の伝来については詳らかでない。
わが国における弁才天信仰は早く奈良時代に遡り、東大寺法華堂所在の塑造八臂像はその最古の遺例として知られている。しかし、八臂あるいは二臂像を問わず、その古例はきわめて稀であり、特にこの種二臂像は胎蔵界曼荼羅や図像等に描かれるほかに平安時代の遺例がなく、鎌倉時代に下っても、文永三年(一二六六)の鶴岡八幡宮の特殊な裸形像(重文)が知られるに過ぎない。
本像はその堅実な作風や構造、技法から、十三世紀末頃の作と推定され、通途の二臂琵琶弾奏像の稀有の遺例としてその存在価値大なるものがある。〓襠【かいとう】衣の緑青彩や朱地の上衣に施された麻葉繋切金文様もよく残っており、手にする琵琶も鹿頸【しとくい】をのぞいて大方造像時のものとみられ、概して保存状態も良好である。
丁寧に内刳された像内には僧俗多数の結縁者名と願文らしきものが記されている。のちに施された墨塗によってその全文を判読し難いが、「良金」「良善」は他の記録などから高野山金剛峯寺僧、円信房は弘安九年(一二八六)の西大寺騎師文珠菩薩像(重文)像内に願文を納めた西大寺僧尊恵円信房かと考えられる。
また、像内内刳は像底に貫通しているが、ここには蓋板を当てていた形跡があって、何らかの奉籠品があったとみられる。頭部内の「釋迦舎利三粒」「金光明最勝王経」などの墨書はおそらく納入の品々を記したものであろう。