木造弁才天坐像(西園寺妙音堂旧本尊)

彫刻 / 鎌倉

  • 鎌倉
  • 1躯
  • 重文指定年月日:20020626
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 白雲神社
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 現在、京都白雲神社内に安置される二臂の琵琶弾奏形の弁才天坐像である。当社は西園寺家旧邸内に建立された妙音堂の後身で、本像は、元仁元年(一二二四)、藤原(西園寺)公経(一一七一-一二四四)によって北山に造営された西園寺妙音堂の本尊であったという。創立期の西園寺は、妙音堂の他に本堂、善積院、功徳蔵院、五大堂などがあった壮大な寺院であったが、その後、足利義満が応永十四年(一三九七)に北山の土地を譲り受け、北山別業となした。西園寺荒廃後の伝来については不明な点もあるが、本像が鎌倉時代にまで遡る作品で、しかも西園寺家に伝えられてきたことからすれば、西園寺妙音堂本尊像の伝来も誤りないとみて差し支えなかろう。
 本像は、髻を結い、上半身裸形のうえ、条帛、裙、腰布(上端一段折返)、腰帯(上端一段折返、正面中央で蝶結び)を各著ける。二臂の弁才天像は多くは大阪・高貴寺像(重文)のように女神形がほとんどで、上半身裸形の菩薩形像は醍醐寺五重塔初層連子窓裏板絵や胎蔵曼荼羅最外院(西北部)中のもの以外先例がない。これは大日経に説かれるいわゆる現図曼荼羅系の弁才天像で、別称として妙音天・妙音楽天などと称される。琵琶の名手として知られた藤原師長(?-一一九二)はこの妙音天を感得・信仰して、西園寺にもたらしたという。のちに出家して理覚と称した師長が密教系の弁才天像を音楽神として信仰したことは想像に難くない。
 本像は、堅実な作風や構造技法などから一三世紀前半の作と推定され、的確な写実表現や切れ長な鋭い目からくる森厳な面貌表現から当時の慶派仏師の作になることが考えられる。保存状態がよく銅製胸飾や着衣部の切金と彩色による文様、彫眼の彩色も当初のものが残る。丸くやや広い面相部の表現は、京都・妙法院の蓮華王院本堂中尊像(国宝)や西園寺本尊像(重文)に近く、慶派風の写実の上に繊細な感覚を加えた表現は仏師湛慶の作風に通じるといえよう。また、頭躰幹部をヒノキと思われる一材から彫出、前後に割矧ぎ頸部を一端割り離したのち左斜めに角度を付けて傾【かし】げさせて矧ぐような技法も慶派仏師の作にみることができる。なお、持物の琵琶は当初のものかどうかは即断できないが、古い形式を伝えていると考えられる。
 わが国の弁才天の遺例はすでに奈良時代に遡るが、平安鎌倉時代に遡る古例の数は少なく、とくに二臂琵琶弾奏形の彫像は、文永三年(一二六六)の鶴岡八幡宮の裸形像(重文)や高貴寺像、奈良・西大寺大黒天像内納入品の懸仏(重文)などが鎌倉時代の作品として知られるのみである。西園寺創建期に遡る本像は、したがって二臂像の最古例となり、本像の信仰の広がりによってその後の二臂の弁才天像の流行が生まれたとの推測も可能であろう。以後の弁才天像の製作に与えた影響も見逃せず、美術史上のみならず、音楽史・文化史上の貴重な作品としてその価値は高い。

木造弁才天坐像(西園寺妙音堂旧本尊)

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