金石城跡 かねいしじょうあと

史跡 城跡

  • 長崎県
  • 対馬市厳原町
  • 指定年月日:19950328
    管理団体名:
  • 史跡名勝天然記念物

対馬は日本と高麗、朝鮮との国境の島である。国境警備の島として位置づけられる一方、大陸への窓口、橋渡しの島でもあった。島主の宗氏は中世後期には対馬守護であり、近世には対馬藩(府中藩)主であったが、朝鮮の側からは「藩〓(*1)」として期待され、授図書人として朝鮮国王から印(図書)を与えられる立場にあった。宗氏は朝鮮に対しては通交貿易によって恩恵をうける一方、日本将軍の代弁者としても行動するという、貿易商人と外交官という異なる顔をもち、一方日本国内に対しては、守護大名という顔と朝鮮国王の代弁者という異なる顔をもっていた。この宗氏が享禄元年(1528)に築いた城が金石城であり、対馬の政庁であるとともに外交の場であった。
 城跡は清水山の南麓の平地を利用して築かれ、南側に金石川が流れている。『宗氏家譜』によれば享禄元年(1528)宗一族に内紛があり、乱後島主の宗盛賢(将盛)が金石の地に館を構築したという。金石は古代嶋分寺(国分寺)の故地で、これより以前に文明年間(1469〜87)山際に国分寺が再建されており、屋形はその前面に造られた。その後の寛文5年(1665)宗義真は国分寺を移転して屋形を拡張・整備し、櫓門を築いた。なお万治3年(1660)新城として桟原城の築城を開始し、延宝6年(1687)に完成したが(城跡は現自衛隊対馬文屯隊基地)、この後も金石城は存続し、文化8年(1811)朝鮮通信使来聘の折には新たに建物が増築され、宿舎にあてられた。また文化10年(1813)の火災で大手櫓門が焼失したが、幕府の許可と2千両の復旧費の貸与を得て、同14年に再建された(この櫓門は大正8年に解体されたが、古写真などにもとづき近年復原された)。
 城跡の遺構は東門(大手櫓門を含む)の桝形、西門の桝形および周辺の石垣、また金石川沿いの石垣などが良好に残っている。また、西門に近接して心字池の庭園遺構が残っている。文化年間の金石城絵図(長崎県立歴史民俗資料館蔵)によれば、大手櫓門をくぐると壮大な七段の石段があり、それを登れば大きな玄関をもつ中心建物があったことがわかる。昭和56年、57年に行われた発掘調査ではこの絵図に合致する位置に建物・排水溝などの遺構が検出され、また朝鮮系瓦のような特色ある遺物も出土している。
 金石城はその構造は比較的簡素であり、複雑な縄張りをもつ要害堅固な城とは必ずしもいえないが、外交に生きた宗氏の城にふさわしい壮麗な構えであった。
 金石城跡はこのように重要な歴史的意義をもつとともに、遺構も良好に残っており、史跡に指定し、その保存を図るものである。なお金石城の詰の城として機能した可能性も考えられる清水山城跡は文録・慶長の役の際の陣城跡として昭和59年に、また金石城跡に隣接する万松院(宗家菩提寺)は「対馬藩主宗家墓所」として昭和60年に、それぞれ史跡に指定されている。(なお近年キンセキ城という読み方が流布しているが、『津島紀略』に「か祢以志」とあるように地名は「かねいし」である。固有地名を音読することはふつうはないから、カネイシ城と読むのが正しい。)

金石城跡

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