陸平貝塚は,茨城県南部,霞ヶ浦南岸中央部にある縄文時代早期~晩期にわたる大規模な馬蹄形貝塚である。明治12年にエドワード・S・モースの薫陶を受けた佐々木忠二郎,飯島魁らの,日本人の手による初めての発掘調査が行われた遺跡として名高い。
遺跡は,縄文海進時に霞ヶ浦に浮かぶ島であった周囲約7.5血の馬掛台地の中央,樹枝状た入り込む谷頭に囲まれた南北150m,東西250m,標高27mの舌状を呈する台地上にある。貝塚は合わせて8・箇所が確認され,台地の西縁,北縁,南縁には長さ100~130m,幅50~70mの大型のA,B,D貝塚が,D貝塚を挟んだ東西には径50m前後のC,F貝塚がある。また,F貝塚の南側及び台地未練む羊は径15~2伽nの小規模のE,G,Ⅰ貝塚が位置している。
台地上は概ね広い平坦面となっているが,部分により微地形の変化が認められる。
小規模のF,G,Ⅰ貝劇こ囲まれた台鱒東部,、およそ3dmx40mの範囲は,上面が緩やかに盛り上がった自然地形を留めている。対して,大型のA,B,D貝塚に囲まれた台地西部は平坦であり,A貝塚の内側に接しては盛土状の高まりが認められる。
それぞれの貝塚間,また貝塚を構成する貝層間Ⅰ芦は縄文時代早期から晩期の各期にわたる時期差がある。早期から前期にかけて台地東部を中心として小規模の貝塚が作られはじめ その後中期から後期にかけて西部に居住域,墓域を伴う大規模な貝塚が作られて遺跡全体が形成されていたことが,貝塚の試掘調査によって明らかになっている。
遺物は中期から後期を中心とした時期の土器及び土偶,耳飾り等の土製晶,石器,骨角器,貝製品(貝翰)が出土している。貝類は,ハマグリを主体とし,シオフキ,サルボウ,ハイガイ,マガキ,アカニシなどの内湾的生息環境を示す種類が検出されている。ほかにクロダイ,スズキ,フグなどの魚類,シカ,イノシシ,ウサギなどの噴乳類も出土している。
陸平貝塚のある霞ケ浦沿岸及び隣接する北浦沿岸は,東京湾沿岸に次ぐ約180箇所もの甲貝塚の密集地帯である。陸平貝塚はその貝塚群の中にあっても,規模,営まれた時期の長さにおいて代表的なものである。また,現在に至るまで遺跡内での大規模な開発工事は行われておらず,貝塚の保存状況は周囲の自然景観も含めて良好である。
集落の変遷過程が良く示された遺跡であり、さらに学史的意義も大きい。よって,史跡に指定し保存を図ろうとするものである。