高峰顕日(仏国禅師。応供広済国師。一二四一-一三一六)は、後嵯峨天皇の皇子と伝えられ、早くから那須・雲巌寺に隠棲しながらもその名声は高く、晩年は浄妙・浄智・建長などの鎌倉の官寺の住持に任命され、その法を受けた弟子には太平妙準【たいへいみようじゆん】、夢窓疎石【むそうそせき】らの多くの高僧が輩出している。
本像は、現在建長寺の塔頭【たつちゆう】である本寺に祀られているが、『仏国国師行録』等によれば、当初は浄智寺の国師の塔、正統庵に安置されていたと思われる。円頂、老貌、右手に警策を執り、法衣および袈裟を膝前と両側に、両袖を膝両側に垂らし、椅子の上に坐す姿は、通例の禅僧肖像彫刻の形に準じている。檜材を用いた寄木造りの技法でつくられており、頭部は胸前を含んで正中線で合わせた二材から彫出し、さらに面相部を割矧ぎ、内刳りの上、玉眼を嵌入し、襟元に差し込んでいる。躰幹部は、前面正中左右二材矧とし、両肩と像底部に材を挾み、さらに左右二材の背板材を矧付けるが、躰部の内刳りは像底を上げ底状に彫り残している。なお表面は、現状布貼の上に後補の漆塗、彩色、漆箔が施されている。
頭部内面左耳付近に「正ハ四年九月十五日/ミかハの/ほつけう/院恵(花押)」の墨書があり、これによって本像は正和四年、三河法橋院恵によって造立されたことが知られる。正和四年は、国師示寂の前年にあたり、鎌倉の地を去り雲巌寺に再び隠棲するに際して製作されたものかと推察される。雲巌寺に伝わる自賛の画像(重要文化財)に比べると最晩年の姿を写しているためか、面部の肉付きが落ちた老貌であらわされている。上躰を前に傾ける姿勢も老齢の姿をありのままあらわしたものであろう。
作者の院恵については、正慶元年(一三三二)の神奈川・慶珊寺【けいさんじ】十一面観音半跏像の銘文にもその名が見られ、関東を中心に活躍した院派仏師の一人と考えられるが、高名な禅僧の肖像製作に関与し、その最晩年の姿を巧みに写した技量は推賞されよう。
鎌倉時代に遡る禅僧肖像彫刻中、像主生前の姿を写した寿像【じゆぞう】はきわめて少なく、本像の他、納入品の年紀をもとに判断される広島・安国寺と和歌山・興国寺の法燈【ほつとう】国師像(建治元年・一二七五、弘安九年・一二八六)、佐賀・高城寺・円鑑禅師【えんかんぜんじ】像(正安二年・一三〇〇)の三躯(いずれも重要文化財)が知られるにすぎない。製作の時期、作者を明らかにし、かつ、遺例の稀な禅宗祖師寿像の遺品として高く評価される。