歴史資料/書跡・典籍/古文書 その他 / 安土・桃山 江戸 室町 鎌倉 南北朝
大島神社、奥津島神社に伝来した古文書で、鎌倉時代から江戸時代に至る二百二十二通を存する。この地は古く湖岸に接する島であり、平安時代には奥島庄として山門御厩料所となっていた。中世の奥島庄民は、おおむね山門の支配下に属し、鎮守である両社の祭神を「大島の主」として信仰しつつ、山野湖水を生活の場としてその活動を展開するが、庄民の中には供御人を号するもののいたことが知られる。
本文書はかかる当庄の歴史を反映して、漁業をめぐる住民と山門庄官との確執を伝える文書や、寄進状、譲状、売券等のほか、起請文などの惣掟書、宮座関係のものなど中世村落の具体的変遷を示す文書が含まれている。文書中、最も年紀の古いものとしては、仁治二年(一二四一)九月日、奥島庄の住民が下司の非法を山門に訴えた奥島庄預所法眼某下文があげられる。この文書は〓に関する初見史料として夙に知られている。同様に元弘元年(一三三一)十二月九日沙弥性忍〓売券のごとく個々の住民による〓の相伝私領化の成立を示す史料もある。また中世村落法の遺例として著名な弘長二年(一二六一)十月の奥島庄百姓等庄隠規文や、社家ならびに村々の評定による私〓の停止に関する永仁六年(一二九八)の大島神社供菜料所〓裁許状など、共同体内部での衆議のあり方を明らかにするものがあり興味深い。さらに、応安元年(一三六八)の大島奥津島御供定書案には、宮座における新興村人層の進出などがみえ、中世末期の神事に関する日記からは、鎮守祭祀の盛行にともなう奥島住民の広範な活動が窺われる。このほか、嘉吉元年(一四四一)八月日の徳政条々定書木札など他に類例の少ない貴重な史料が含まれているのが特徴である。
本文書は、中世村落の形成や惣村の日常を具体的に明らかにするなど豊富な内容をもつもので、中世社会経済史の研究上に価値が高い。