本来は絵巻物形式の親鸞聖人伝絵であるが、現状は、これを一紙ずつに分離したうえで縦に五紙を並べて一幅の掛幅としており、計八幅をのこす。親鸞聖人伝絵(上下二巻、全十五段)の上巻の八段にあたる。
本図は、南北朝時代の浄土真宗の僧として著名な存覚【ぞんかく】(一二九〇-一三七三)が記した『袖日記』中の「錦織寺【きんしよくじ】絵事」の項に記述された親鸞聖人伝絵にあたると考えられる点で注目されるものである。「錦織寺絵事」は、存覚と縁がふかかった近江の錦織寺で親鸞聖人伝絵が制作されることになったため、存覚がその詞書の書写を延文五年(一三六〇)に行った時の記録であるが、この中で彼が書き留めている詞書の各段ごとの紙数と行数は、本図のそれとすべて一致する。筆跡自体も存覚のものに共通性が強く、本図がこの記録にある伝絵に相当すると考えてよいであろう。
親鸞聖人伝絵は、覚如【かくによ】が永仁三年(一二九五)に初めて制作した十三段の永仁本(初稿本)と、康永二年(一三四二)に新たに二段を加えて改訂した康永本の二つの系統に大きく分けられるが、本図の構成は蓮位夢想【れんいむそう】(第四段)と入西鑑察【にゆうさいかんさつ】(第八段)の二段を含むことから、康永本の系統であることがわかり、また図様もおおむねは康永本を基本とするものである。しかしながら、第七段に茶を曳く僧のいる部屋を描くことなど、図様の一部には先行する作例にみられない部分もあり、また康永本よりも初稿本系統の作品に図様が近い場面もあるなど、多く現存する親鸞聖人伝絵のなかでも特色ある一本である。
存覚の周辺では何人かの絵師が活躍したことが文献から知られ、本図の筆者もそのような絵師のひとりであったことも考えられるがもとより確定はしがたい。しかし、その筆致は丁寧で技倆も高く、中世やまと絵の作品のひとつとしても評価できよう。
なお、本図を伝える定専坊は、楠木正成の後裔と称する浄顕の開基になると伝え、文明年間(一四六九-八六)に蓮如により寺号を与えられたとする寺院で、石山合戦で多大な功績をなしたことなどが知られるが、本図が錦織寺から当寺へ伝来した経緯は明らかではない。