如意輪観音を単独に表した画像には、図像類を別にすれば、金剛智【こんごうち】訳『観自在如意輪菩薩瑜伽法要【かんじざいによいりんぼさつゆがほうよう】』(あるいは不空訳【ふくう】『観自在菩薩如意輪瑜伽』)に依る六臂【ろつび】像と、鎌倉時代以降に描かれるようになった二臂像の遺例がある。現在日本に存する遺品はいずれも鎌倉時代以降の作で、近年重要文化財に指定された滋賀法蔵寺本がもっとも古い。六臂像としては東京金剛寺本以下四点の遺品が指定されているが、これらはいずれも鎌倉時代後期以降の作であり、背景に岩山や海波を表した鑑賞性の強いものである。これに対して、本図は背景を全く描かない点では法蔵寺本に近いといえる。しかし、本図は第一に画面上方に一山一寧による賛を有し、第二に様式的に南宋あるいは元代仏画の影響をきわめて強く示している点、伝統的密教画である法蔵寺本とは大きく隔たっている。
本像の男性的な面貌や幅広い足の表現、朱暈【しゆぐま】による微妙な肉付けなどは、永保寺蔵千手観音像(重要文化財)に共通し、金泥線で輪郭や衣褶線を縁どる両膝部の描き方や服飾における意匠・文様、蕊のこぼれる蓮華の表現など、建長寺蔵釈迦三尊像(重要文化財)に近似している。このように、本図は宋あるいは元画に範をとっていることが推測される。菩薩の裙【も】裾に華麗な花唐草をあしらう同趣の表現が、海住山寺蔵釈迦三尊像(建武五年銘-一三三八-)中の普賢菩薩にも見いだされるが、ともに大陸画学習の成果を示すものとしても、海住山寺本が和様化の傾向をみせているのに対して、本図はより直模的な表現といえよう。
本図は画中に徳治二年(一三〇七)建長寺在住の一山一寧による賛をもつが、以上のように本図の制作期もこの頃とみてよく、このように制作期がほぼ知られることは貴重である。また、画面左下隅に半ば欠けた印文があり、「菊」と読める。江月宗玩【こうげつそうがん】『墨蹟之寫【ぼくせきのうつし】』寛永十三年の条に、「正安辛丑 建長比丘一寧拝題」の賛をもつ釈迦三尊像があり、これに「菊溪」という画師の印があることが記されている。徳治二年とは六年の差、同じく建長寺時代の一山による賛をもつことから、本図の印文も菊溪であったと考えられる。菊溪が鎌倉地方、あるいは寧一山と関連の深かった画家であったことが憶測されるが、本図の様式的特徴が他の遺品に比べても抜きんでて先進的であることは、このことと無関係ではあるまい。
以上のように、制作時期と作者名がほぼ知られる点で重要であり、鎌倉時代後期における大陸画学習の実態を知る上でも欠かすことができないが、さらに仏画遺品としても高い水準を示している。