南山城の浄瑠璃寺は、九体阿弥陀仏像を本尊とすることから九体寺、九品寺とも称され、浄土信仰の展開のなかで発展し、本堂および三重塔は平安時代後期の代表的建造物として国宝に指定されている。
本流記は、浄瑠璃寺の歴史を記したもので、体裁は袋綴装、料紙には貞和二年(一三四七)から同三年の法華法等著到の紙背に天地に押界を施して用いている。見返に観応元年(一三五〇)長算の跋があり、永承二年(一〇四七)から貞応二年(一二二三)までは「古記」により写し、永仁以降は「続録」したと記している。本文の首に「記 浄瑠璃寺流記事」と内題があり、その下に「流記上帖/年中行事下帖」と割書するが、年中行事は伝わっていない。本文は半葉八行書で、永承二年の本堂造立のことから、ほぼ編年順に箇条書に掲げ、本堂、三重塔など諸堂舎の造建、修造のことをはじめ、阿弥陀講、舎利講などの行事の由緒等も記している。その記事には、造営にあたった大工の名や供養僧、楽人の名をあげるなど具体的な記述が多く、当寺が南都興福寺と深い関わりをもって発展した様相を伝えている。また貞和三年山城祝園の猿楽勤仕の記事は芸能史料としても注目される。観応元年(正平五年)までの記事は一筆に書かれ、長算の筆と指定されるが、次いで応永十七年(一四一〇)本堂前池の修理の条が別筆で追記され、さらに文明七年(一四七五)大湯屋修理の記事が料紙を補って書き加えられている。本文中一部に欠脱があるが、浄瑠璃寺の創建以来の変遷とその規模を伝える唯一の資料として貴重である。
附とした浄瑠璃寺縁起は、寛永二年(一六二五)に乗秀が編纂した縁起の写本で、斐紙九紙を継ぎ銀界を施して書写している。その内容には、流記の記事を補う点もあり、流記とあわせて保存をはかることとしたい。