日米和親条約の規定により、米国はハリスを初代駐日総領事として安政三年(一八五六)八月、下田に派遣し、通商条約締結を目指した。ハリスは日本側全権下田奉行井上信濃守清直・中村出羽守時万等と折衝の末、翌安政四年五月二十六日に全九条の条約を調印した。下田で締結されたので下田条約ともいう。
条約の趣旨は、幕府が神奈川条約以上に英・露・蘭との和親条約で許したものを米国にも適用するというもので、和親条約の範囲内の追加条約的性格を有する。この条約において、長崎開港、下田・箱館に米国市民を居留させること、箱館での副領事の駐在等を規定するが、最も重要な点は、居留米国人への領事裁判権を認めたことで、不平等条約への道を開いたものである。貿易については、総領事・館員のみは日本商人からの直買ができることで通商条約に一歩近づいたが、商人同士の直接の取引はできず、ハリスは自由貿易とは考えなかった。そこでさらに通商条約の締結には時間を要することになった。
条約の本体である調印書は和文・英文・蘭文の三つの条約文からなる。英文条約は薄青色の洋紙にインクで書かれており、ハリスの署名・朱の封蝋がある。和文条約は和紙に墨書してあり、全権井上清直・中村時万の名と花押がある。蘭文条約も和紙に墨書されているが、筆ではなくペン様のもので書いたとみられる。これは条約第八条にあるように、条約の解釈について日米で相違が生じた場合、蘭文を担保とするためである。なお批准書交換は下田において安政四年閏五月五日に行われた。
この条約は開国の事情の一端を物語るものとして近代外交史上に重要である。