駐日米国総領事ハリスは通商条約締結を企図し、安政四年(一八五七)十月、将軍家定に謁見し国書を奉呈した。また老中首席堀田正睦と会見し、英仏艦隊の来航の可能性と阿片禍の危機について強調し、米国と第一番に通商条約を結ぶことが日本にとっていかに有利かを説いた。その結果、幕府は条約締結へと動き出し、井上信濃守清直・岩瀬肥後守忠震を全権としてハリスと交渉した結果、安政五年正月に妥結をみた。しかし幕府は勅許が得られないことを理由に調印延期を要請した。六月中旬になると清におけるアロー戦争の英仏連合軍の勝利が伝えられ、ハリスは英仏の脅威を説いて調印を強く促したので、大老井伊直弼は調印に踏み切り、六月十九日に神奈川沖の米艦ポーハタン号上で締結したのが日米修好通商条約である。
これを機にオランダ、ロシア、英国、フランスとの間で修好通商条約が次々と締結された。なお五か国との条約とその関連資料は大正十二年の関東大震災で被災し、オランダ・ロシアの分は失われ、その他の国の分もかなりの損傷を受けている。
日米条約は全一四か条で、箱館・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港、江戸・大坂の開市、これらの地における自由な売買、関税の取り決め、開港場での居留と開市場での逗留の許可、領事裁判権利、在留米国人の信教・教会建設の自由、阿片禁輸等を規定する。条約の最も重要な点は、開港場居留地での自由な貿易権を認めたこと、および日本にとって片務的な領事裁判権と協定関税を柱とする不平等条約であるということである。貿易章程は七則あり、貿易の諸手続きと従価税に基づく関税を定めている。
調印書・貿易章程は封蝋入りの円形の銀缶付きで、和文・英文・蘭文がある。和文調印書には井上清直・岩瀬忠震の名と花押があり、英文調印書にはハリスの署名がある。蘭文には署名はない。これらを大統領ジェームス・ブキャナンの署名、国務長官ルイス・キャスの副署のある批准書原本で包んで紐で綴じている。
批准書交換は万延元年(一八六〇)四月三日にワシントンで行われた。和文交換証書には全権新見豊前守正興・村垣淡路守範正・小栗豊後守忠順が署名し、英文証書には国務長官ルイス・キャスが署名する。その他に和文証書蘭訳文と英文証書蘭訳文が附属している。
改税約書は、文久二年(一八六二)五月の下関砲撃事件の賠償金の減免と引き替えに、慶応二年(一八六六)五月十三日に英・米・仏・蘭と江戸で調印した旧税則の関税率の軽減と貿易の制限撤去を眼目とする取り決めである。四か国ごとに個別に結ばれたが、すべて同文で、内容は、約書・運上目録・規則からなり、約書は一二か条、運上目録は輸出入品の税率表で、規則は三則ある。
本条約は、日本が開国を果たし、欧米列強をはじめとする国々の自由貿易市場として包摂されることになった最初の条約として日本近代史上に重要な意味をもつ。