アロー戦争処理のため清国に派遣された英国特派大使エルギンは、天津条約調印後に遣日使節として三隻の軍艦を率い、安政五年(一八五八)七月八日、江戸に上陸した。英本国は対日条約について、軍事的圧力下で締結した天津条約と同一原則を適用しようと意図していた。しかし先に米国が日本との間で修好通商条約を結んだので、エルギンとしては日本との条約調印の延引を避け、対日関係での混乱と紛糾をおかさないようにするため、締結に踏み切り、七月十八日に調印した。
日英条約は全二四条で、江戸での交渉以前に下田でハリスから日米条約を示されていたので、その諸規定を多くの場合言葉づかいまでも踏襲した。それゆえ日米条約と大きな差異はないが、領事裁判権はより精密広範で、天津条約のそれとまったく同一である。また日米条約では最恵国条項を欠いていたが、日英条約では明記しており、これも天津条約と同文である。これらの条項に英国の当初の意図が反映され、これ以前の三か国との条約に比較して不平等条約としての性格がさらに強くなった。貿易条項では日米条約に比べて開港場での自由貿易を明確にうたっており、これもいっそう完全なものになった。関税については、英国の重要輸出品である綿製品と羊毛製品が低率の五パーセント税品に編入された。
条約調印書・貿易章程は日米条約と同じく封蝋入りの円形銀缶付きで、和文・英文・蘭文があり、エルギンと日本側全権水野筑後守忠徳・永井玄蕃頭尚志・井上信濃守清直・堀織部正利煕・岩瀬肥後守忠震・津田半三郎正路が署名する。
英国女王批准書は一八五八年十一月二十二日のヴィクトリア女王の署名がある。羊皮紙製で、震災の時の熱で縮み固着して開披できないが、記載の一部と女王署名および一八五八年の年紀が読める。
批准書交換は安政六年六月十二日、江戸において行われたが、批准書交換証書には外国奉行水野忠徳と駐日総領事オールコックの署名がある。これにも和文・蘭文・英文証書がある。
ロンドン覚書は、幕府が英国との間で開市(江戸・大坂)・開港(兵庫・新潟)の延期を決めた協定である。幕府は貿易開始後の物価騰貴や攘夷論等の政治的経済的混乱のため条約期日に開市開港を不可能とみて、欧州各国にその最大限の延期を要請するため竹内下野守保徳等を使節として派遣した。一八六三年六月六日(文久二年五月九日)に英国と締結したのがこの覚書で、日本側竹内下野守保徳・松平石見守康直・京極能登守高朗と英外相ラッセルが署名する。これには覚書を英文活字で印刷したものや、和訳文等の関連資料が一緒に綴じ込まれている。
本条約は、当時最強国であった英国との間に結ばれたものであり、日本の開国通商をめぐる条約のひとつとして近代外交史上に貴重である。