清国に派遣されていたフランスの特派大使グロ男爵は、条約締結交渉のため日本に行くことを訓令されていたので、天津条約締結後、英国使節エルギンのあとを追って、安政五年(一八五八)八月十三日、三隻の軍艦を率いて品川沖に来航した。八月二十日に芝真福寺で幕府との交渉に入り、早くも九月三日に条約と貿易章程の調印をした。日本側全権は水野筑後守忠徳・永井玄蕃頭尚志・井上信濃守清直・堀織部正利煕・岩瀬肥後守忠震・野々山鉦蔵の六名である。フランスは対英協調のもとに日本からできるだけ有利な条約を獲得しようとし、エルギンと緊密な連携のもとに日本側と交渉した。したがって日仏条約は条文の編成にいくらか異なるところはあるが、ほとんど日英条約と同じ内容である。
条約調印書・貿易章程は封蝋入りの円形銀缶付きで、皇帝ナポレオン三世の批准書とともに一冊をなしているが、羊皮紙製のため大震災のときの熱で収縮固着して現在のところ開披できない。
批准書は一八五九年三月三十日の日付で、安政六年八月二十六日に江戸で交換された。批准書交換証書は外国奉行酒井隠岐守忠行と初代駐日総領事ド・ベルクールの花押・署名・印があり、和文と仏文のほかに、それらを片仮名文にしたものがある。またド・ベルクールの片仮名文の書簡が添えられている。
第七条第十九条説明書は、条約調印後の九月二十二日に、条文の文意について明確でない箇所を双方で確認したもので、説明書とその添書からなっており、それぞれに和文・仏文・蘭文のほか、その翻訳文などからなっている。これらには酒井忠行・老中脇坂中務大輔安宅とド・ベルクールの署名・印がある。改税約書は和文と仏文がある。
フランスは米・英・露・蘭の対日条約のあとを受けて最後に対日修好通商条約を締結した。これらの国との条約がいわゆる安政の五か国条約といわれるもので、日米和親条約から始まった日本の開国への歩みは、五か国条約に規定された翌安政六年六月二日の横浜・長崎・函館の三開港場での自由貿易の開始をもって完結することとなった。
以上の日米和親条約批准書交換証書から日仏修好通商条約までの条約類は、近代国家へと歩み始めた日本の足跡を如実に示すものとして、きわめて大きな重要性をもつ。