現在、谷保【やぼ】天満宮宝物殿に安置される高さ一尺七寸を測る中型の獅子狛犬の一対像である。当初、本殿に安置されていた。無角開口で体部金色の獅子と有角(亡失)閉口で体部銀色の狛犬の一対からなる。
ともにヒノキ材と思われる針葉樹材の寄木造で、頭体幹部を地付まで前後四材に、さらにそれぞれを左右に矧ぐ構造になり、内刳のうえ面部を割矧ぎ、玉眼を嵌入する。
両像ともお互いに内側(拝者側)に体をやや捻って頭部を向け、内側の前肢を手前に引き、もう一方の前肢を前方に踏み出し、拝者側に顔を向ける姿勢をなす。動きのあるこうした表現は、京都・高山寺の木造獅子狛犬(嘉禄元年=一二二五年、重文)を先例として、八坂神社の木造獅子狛犬(重文)などのように動物としての現実感ある写実的表現とともに鎌倉時代前期に確立し、以後獅子狛犬の一典型となる。本像は、動物らしい写実表現のなかにも穏やかな作風を示すが、たてがみの表現にやや装飾性が加わるので、製作は一三世紀半ばころに求められよう。
当社は菅原道真の三男道武が関東に配流されて創建されたと伝えるが、その後源頼朝の御家人でのち法然に帰依した津戸【つのと】三郎為守【ためもり】(一一六三~一二四三)が現在地に遷座して復興したという。為守は承久元年(一二一九)に出家して、のちに当社神主になり代々子孫が宮司を務めている。
現在の本殿は寛永年間(一六二四~四四)の建立とされる。当社所蔵の世尊寺経朝(一二一五~七六)の筆になる扁額(重文)には建治元年(一二七五)の刻銘があり、この年を本像製作に重ねてみようとする説もある。本像の作風を考慮すれば、建治元年は当社復興完成の年で、本像製作はそれより遡って為守在世中のころと考えられる。
獅子狛犬は鎌倉時代後期から一部では簡略化、形式化の傾向のあるものが出てくるが、そのようななかで活発で動きがありながら写実表現を踏まえ、破綻をきたさない中央の正統的なつくりを見せる本像は、鎌倉時代を代表する作例と推賞されよう。