山之口の文弥人形は、文弥節浄瑠璃を地とする一人遣いの人形芝居である。
「文弥節」とは、延宝【えんぽう】~元禄【げんろく】頃大坂の伊藤出羽據座【いとうでわのじようざ】で活躍した太夫「岡本文弥【おかもとぶんや】」の創始したとされる浄瑠璃で、義太夫節以前の古浄瑠璃の一つである。その感傷的な節付けで「泣き節」「愁【うれ】い節」ともよばれ、『竹豊故事【ちくほうこじ】』(宝暦六年刊)に「伊藤出羽據座の文弥節は諸国の浦々隅々迄もはやり、遠国辺土【おんごくへんど】の西国巡礼の衆中、京都にては御内裏様、大坂へ来ては出羽據の芝居を見て帰らねば西国したる甲斐もなく、死ては閻魔大王の前にて言訳の無様【なきよう】に有難がつて持賞【もてはや】しける」とあるように、一時は全国に流行したが、十八世紀後半以降は次第に義太夫節に押されて衰退した。
近世の山之口は、薩摩藩領の北端に位置しており、藩境警備の番所が置かれて郷士【ごうし】集団がその守備にあたっていた。山之口の文弥人形は、参勤交代の際にこの郷士たちが京・大坂で習い覚えて伝えたと伝承されており、その後も郷士集団およびその後裔により管理・継承されてきたといわれている。
文弥節として伝承されている演目としては、「出世景清【しゆつせかげきよ】」、「門出八嶋【かどでやしま】」の二曲であるが、ほかに「間狂言【まきようげん】」とよばれる「太郎【たろう】の御前迎【ごぜむけ】」、「東嶽猪狩【ひがしだけのししがり】」や、「娘手踊【むすめておどり】」といった間【あい】の物【もの】も行われる。このうち間狂言は、山之口の方言で演じられるセリフ滑稽寸劇で、浄瑠璃の間に「のろま人形」とよばれる道化人形を挟んだ、人形芝居の古い興行形態を伝えるものである。
人形は古典的な一人遣い差し込み人形で、人形の背面帯下の穴から両手を差し込み、左手で胴串【どぐし】を握りながら人形の左手を挟み、右手は人形の右手を操作する弓手式の古典的操法であるが、人形の首を頷かせる「ガクガク式」とよばれる特殊な胴串や、人形の手の演技のための工夫を加えるなど、他の古浄瑠璃系人形にはみられない独自の改良がなされている。
以上のように山之口の文弥人形は、人形芝居の古態をうかがう上で芸能史上特に重要な価値を持つものであり、また地域的特色を示すものとしても貴重である。