六波羅蜜寺の本堂(国宝)の本尊である。左手を屈臂し掌を前に向け、右手は垂下し掌を前に向け、両手とも第一・三指を相捻じ、第二・五指を伸ばし、第四指を軽く屈する。条帛、天衣を懸け、裙(折返し一段)、腰布を着け、腰をわずか左方に捻り、右膝を軽く曲げ前に出して立つ十一面観音像である。当寺は、もと西光寺といい、初期の念仏行者として著名な空也(九〇三-九七二年)によって創建された。空也入滅後まもなくの成立とされる『空也誄』にある「金色一丈観音像一体」が本像にあたり、天暦五年(九五一)の造立と考えられる。
木心を中心に籠めた一材より頭体根幹部を彫成し、背後から大きく内刳りを施す。後頭部は天冠台下から頸部にかけて蓋板を当て、躰部の上半身背面は天衣上縁から裙上縁にかけて一材を矧ぎ、また下半身は裙上縁から裙裾にかけて両躰側に各一材、背面に一材をそれぞれ矧ぎ、両者の間に約一〇センチメートル厚の材を挿む。頭部背面材と上半身背面材の間に幅約二センチメートルの横材(後補)を入れる。左手は肩、臂前、手首で、右手は肩、手首で各矧ぐ。天衣の遊離部は別材矧付けとする。両足は、像内脛部に長さ各約五〇センチメートルの材を取り付けて、そこから裾下に出る踵を彫出し、さらにその下に〓【ほぞ】を造り出す。足先は根幹材から彫出し、その先は別材矧付けとする。表面は錆下地漆箔とする。
『空也誄』には観音像の大きさが「一丈」とあるが、本像は頂上面からの像高が二五八・〇センチメートル(曲尺で八尺五寸一分)なので、むしろ髪際高で周一丈である。資財帳など公文書では大きさを厳密に記すことが普通だが、それ以外の文献は概数の場合が多い。これもその傾向に沿うものである。
頭上面は、髻頂に仏面(後補)、髻の側面と地髪部に菩薩面四(うち正面の菩薩面二面後補)、牙上出面二(うち左方面後補)、瞋怒面二(二面亡失、左方一面後補)、髻正面に化仏(後補)を表す。後補や亡失があるが、その配置が髻の基部に五、地髪部に五、さらに化仏が正面菩薩面の背後となっているのは、通例と異なる。しかし『覚禅鈔』に記載されている観世音寺講堂十一面観音像がこれと同じ配置であり、類似例といえる。
現状では両手に持物はない。経典によれば、十一面観音の左手は蓮華を挿した瓶または蓮華、右手は数珠とあるが、現在の左手の構えでは瓶はとりえないので、左手蓮華、右手数珠だったと考えられる。
一木造の常としてあまり大きな動勢は控えつつも腰や股間のくびれは強く、一方、目鼻や衣文の彫りは浅くというように、和様表現の模索期にあたる一〇世紀半ばころの作風をよく表している。これら文献の記載や図像および作風の観点から、本像は空也の創建した西光寺(六波羅蜜寺)当初の本尊とみて間違いないものである。
九世紀末から一〇世紀初めの聖宝・会理時代の重厚さを引き継ぎながらも、そこに軟らかみを加えた本像は、この時代の典型というべき作風を造り出している。一〇世紀半ばの基準作であり、やがて登場する康尚による和様の前段階という意味でも重要な意義をもつ。この期の京都の造像を代表する本像は美術的に優秀というだけでなく、文化史的にみても特に意義深く、一〇世紀の彫刻を代表する作品といえよう。