宋人浄蓮が一筆に書写した大般若経で補写経四帖をあわせ五百九十九帖を存している。
体裁はもと巻子装のものを改装して折本装にしたもので、後補の丁子吹銀砂子散表紙に外題、千字文函号を墨書し、料紙は丁子染楮紙に淡墨界を施して用いている。本文は一紙二三行、一行一七字に速筆ではあるが丁寧な筆致に書写しており、各巻末には「宋人浄蓮書」等の奥書があり、巻第六百には左の奥書がある。「自正應元年〈巳/丑〉歳十二月四日始之、至于
正應五年〈壬/辰〉歳十二月三日五箇年之間、
一筆書寫 大般若經一部六百巻、
奉安置出雲國須佐郷
東山 御宮十三所大明神之聖前、安慰
毎年轉讀廻向、神力各身平安、永無
災厄壽命延長、萬事利益上下眷属、亦
如意者
設經大施主御代官沙弥政願
沙弥助阿
執筆一乗宋人浄蓮」
この奥書によれば本経は代官沙弥政願、沙弥助阿を施主として、宋人浄蓮が正応元年(一二八八)十二月四日より同五年十二月三日に至る丸四年間をかけて、一巻およそ二日半の日数で一筆に書写したもので、十三所権現(須佐神社)の宝前に納め、毎年転読廻向がなされたものであることが判明する。巻第十六~三十、第五十一~六十三の二十八巻は奥書に「大宋人安善執筆書」等とあり宋人安善の書写であるが、巻第六十四は前半部は安善、後半部は浄蓮の合筆になるものであり、この安善の書写は浄蓮を助筆したものと認められる。
浄蓮、安善および施主の政願、助阿については詳らかではないが、文永八年(一二七一)十一月関東御教書(千家文書)によれば、当時須佐郷は北条時宗の所領であり、おそらく正応年間には北条貞時の所領であったと考えられ、「御代官沙弥政願」は得宗被官人で須佐郷の地頭代であった可能性が高い。当時、出雲地方と中国との交易が盛んであったことは後の尼子氏による日明貿易の例によっても推測されることで、出雲地方の得宗領内で得宗被官人の保護をうけて宋人による写経作業が行われたことは、出雲地方と中国との交流の一端を示して注目される。
なお、本経が高野寺に納められたのは江戸時代のことで、巻第六百の奥書についで別筆で「後伏見帝正応五年壬辰、到于寶暦十年庚辰得四百六十九年」とあること等から、宝暦十年(一七六〇)頃とみられる。