勧学会は平安時代の康保元年(九六四)三月に慶滋保胤【よししげのやすたね】らが中心となって大学寮北堂の学生と叡山の僧等が合同で催したことに始まり、僧俗各二〇名が一堂に参集して法華講義のあと詩文を作り、念仏を行う行事で、以後『三宝絵詞【さんぼうえことば】』等によれば、毎年三月と九月の十五日に行われるのが恒例となった。
この総持寺本は、康保元年十一月十五日の勧学会記の古写本で、料絹には有職【ゆうそく】織物に多く行われた固地綾【かたぢあや】を用い、一行八字前後に法性寺様【ほつしようじよう】の書風をもって行体で書かれている。本文は首を少欠し「之雲色不定、於戯禅侶楽題目」云々以下八四行を存している。巻頭より詩序、ついで賀茂保章、中原朝光、文室如正の作詩三首を記し、以下にいわゆる記を記している。記には講説、竪義、誦讃などの仏事を記し、最後に参会の人々が詩を賦したことを述べて、巻末に「中有凡夫源為憲、謬預二十之列、独慙緇素之交、倩見実事走筆記之」とあって、この勧学会記が参会者の一人源為憲【みなもとのためのり】によって記録されたことを明らかにしている。詩序中に「于時康保第一年十一月十五日」の年紀があり、勧学会は三月・九月が恒例であることから十一月を九月の誤写とする説もあるが、文中には「山雪紛々」など冬の季節を示す表現もあり、この勧学会記はその第二回にあたる康保元年十一月の勧学会の記録と考えられる。
本書によって勧学会の結衆のうち学生四名が新たに知られ、また従来その人名が詳らかでなかった僧侶の結衆として、一四名が判明したことは勧学会の性格を考える上に大きな素材を提供している。
巻末に料紙を継いで藤原輔方【すけかた】の識語があり、本巻を法性寺関白藤原忠通【ただみち】の筆と鑑している。輔方は中尊寺供養願文(重文、中尊寺蔵)の筆者としても知られる鎌倉後期の能書であるが、本巻は法性寺様の特徴をよく伝えており、平安時代末期に法性寺様の行体の手本として写されたものと考えられる。康保元年十一月の勧学会の具体的内容を伝えた唯一の記録として、漢文学、仏教史学上に価値が高い。