多田神社文書(四百九十二通) ただじんじゃもんじょ

歴史資料/書跡・典籍/古文書 その他 / 鎌倉 南北朝 室町 安土・桃山

  • 鎌倉~桃山
  • 43巻
  • 重文指定年月日:19880606
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 多田神社
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 源満仲が創建した多田院(現在の多田神社)に伝来した文書で、現状、巻子装四十三巻に装幀されており、鎌倉時代より桃山時代に至る四百九十二通を存する。
 多田院は源氏の宗廟として信仰され、その歴史を反映して、この多田神社文書には鎌倉・室町幕府の支配・崇祀に関する文書が多く含まれているのが特徴で、その内容は、鎌倉時代北条氏支配下にあった多田庄の様相や、この地に土着した満仲の一族郎等が一揆した多田院御家人の動向などを伝えている。
 このうち元暦二年(一一八五)より正安元年(一二九九)に至る文書十七通を写した多田院重書案一巻(鎌倉時代後期写)は、多田行綱の追放からのちに多田庄の支配権を得た北条泰時によって多田院御家人が安堵されるまでの次第や、泰時の定めた多田院、多田庄および多田院御家人に関する条規などが収められていて、多田院の根本文書として知られている。
 多田庄を所領とした北条氏は文永九年(一二七二)頃より多田院の修造を行っているが、このうちの忍性書状三通は、建治三年(一二七五)、多田院の別当職および勧進職に補せられた鎌倉極楽寺の長老忍性が多田院の修造に尽力していたときの状況を伝えて注目される。また多田院堂供養指図は、鎌倉時代後期の多田院の規模を示している。
 南北朝・室町時代に入ると、歴代将軍の遺骨を多田院に分納するなど足利氏の多田院に対する深い帰依を背景にして、寺領寄進や安堵、諸役免除などの武家文書が一群をなしている。さらに鎌倉時代後期以降の土豪や庶民による多田院への田畠等の寄進状も多数存し、その信仰のあり方が知られて興味深い。
 附の目録はいずれも多田神社文書の修理に関するもので、姫路城主榊原忠次、老中稲葉正則、多田院御家人による修理寄進が行われたときの目録であり、近世における多田院に対する崇敬と、文書整理のあり方を伝えるものである。

多田神社文書(四百九十二通)

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