天地眼、牙上下出とするいわゆる十九観様の不動明王立像に、矜羯羅とみられる童子の跪坐像が随侍する構成で、現在この二躯のみ伝えられている。台座(後補)銘によれば作者は湛慶で、京都・東寺より移安されたという。
不動明王像はヒノキ材の寄木造、玉眼嵌入で、頭体幹部は左右上膊を含み足〓まで通し、右目および胸部中央を通る線で矧ぐ左右二材より彫出したのち、頸部で頭・体を切り離し、頭部を右にやや回転させて薄材を挟み再接合したとみられる。頭体を通して内刳を施す。頭部は面部をいったん割り離し、両耳上で水平に鋸を入れ上下に切り離したうえ面部を再接合する。腕は両肩で割り矧ぎ、左前膊半ばで水平に矧ぎ(もしくはいったん切り離し)、両肘・手首で各矧ぐ。両脚はそれぞれ裙との境目でいったん割り離す。巻髪の各先端、弁髪遊離部、右肘外側、正・背面の条帛垂下部、右裙裾、腰帯結び輪および垂下部、右足先外側を各矧ぐ。臂・腕・足釧は各銅製。表面は錆下地彩色仕上げで肉身部は青色彩、髪は赤茶で切金で毛筋を表す。着衣には、条帛(地色不明)に切金斜格子文を地文とする切金菱の団花文、裙(赤地)に切金七宝繋文を地文とする銀泥の団花文、腰帯(白緑地)に切金七宝繋文など、種々の文様が認められる。
童子像はヒノキ材の一木造、錆下地彩色仕上げ(現状古色)で、頭体幹部は両手先後半まで含み一材より彫出、面部を割って内刳を施し、玉眼を嵌入する。両肩以下を割り矧ぐ。両手先前半、両足部(横一材)、両腰脇、上膊に巻く帯と腰帯の結び部を各矧ぐ。肉身の色は不明で、条帛や裙にわずかに切金文様が残っている。
不動像の左肘を屈し、掌を仰げて羂索を執る形は、立像では文治二年(一一八六)運慶作の静岡・願成就院像(重文)に始まり以後の作例にしばしばみられるが、腰の捻りと裙裾のなびく方向が通例と逆で、また製作途中まで顔を左方に向けていたと推定されることからすれば、やや変わった像容の不動像として構想されたかとみられる。左胸前で条帛末端を結ぶのも不動では類例を見いだせない。
胸腹部や腰まわりに分厚く肉付けを施したたくましい像容には願成就院像や、同じく運慶作の神奈川・浄楽寺像(文治五年〈一一八九〉)に通じる特色がうかがえ、修理銘のいう湛慶作は信じられないにせよ、作者は運慶周辺の仏師に求めるべきであろう。各所にたぐれや翻りをつくるなど、変化に富んだ衣文の彫法に特色がある。側面観において意外に動きの少ない姿や、彩色や切金の多分に藤原風をとどめた優美な趣致からみれば、製作年代は一二世紀末を下らないものと思われる。
童子像は髪や着衣の彫り口、切金文様などが不動像と酷似し、両者一具であることは疑いない。坐像の矜羯羅童子は白描図像には例があるものの、彫刻としては他に遺品をみない。
童子像の面部などに補修の手が加わっているのが惜しまれるが、鎌倉時代初期の慶派による異色作として注目される。