巻髪に左目を眇めて牙上下出するいわゆる不動十九観様の面相をなし、右足を踏み下げて坐す半丈六の不動明王像である。後補の頂蓮の下に七莎髻があり、頭頂がやや盛り上がる点などの特徴がある。右足踏み下げの不動明王の平安鎌倉時代に遡る彫像は現在知られておらず、画像では和歌山・明王院本(重文)や新潟・法光院本(重文)、仁和寺の密教図像(重文)中の不動明王三童子像などがあるが、巻髪に莎髻を結い、右足踏み下げにする形勢は仁和寺本に一致する。
彫りの浅く襞の数少ない衣文表現や幾分穏やかな肉身表現等に平安時代後期の特徴があらわれているが、いっぽうで重量感ある像容や現実感ある玉眼にみられる力強い激しい忿怒表現には、すでに鎌倉前期慶派仏師の写実に通じる表現がうかがえる。
本像は安楽寿院の不動堂の後身と伝える北向山不動院本堂に安置される。この不動堂は、久寿二年(一一五五)、藤原忠実が鳥羽安鎮のため、鳥羽安楽寿院に建立した。『兵範記』等によれば、同時に本像の他に二童子、五部夜叉、虚空蔵などの眷属像も製作されたという。中尊以外は現在失われているが、特殊な形勢の不動の図像とともに尊像構成のうえからも興味深く、さらに同書裏書等には仏舎利、不動明王等真言などの経巻類などが納入されていたことが知られるが、仏舎利はこの時期としては特異なもので、次世代にみる納入品が先駆的に行われていたことがわかる。
構造は、ヒノキかと思われる針葉樹材の寄木造で、頭体別材製(内刳)のうえ、さらに頭部・体幹部はそれぞれ上下二部に構成される。頭部では耳上で上下に、体幹部では胸・腹部の間で上下に各分かれ、頭部はそれぞれ正中・両耳後、体幹部も正中・両躰側の各四材矧ぎのうえ、体部は背面に背板風の左右二材を矧ぎ、さらに適宜各部材間にマチ材を挟むという複雑な構造をなす。両手は肩・上膊半ば・肘・手首で各矧ぎ、右手首先甲半ばで縦に矧ぐ。両足部は前後二材製(内刳)とする。また頭体幹部の接合を〓差しとはせず、頸部の辺りで木口矧ぎにするのは、中尊寺一字金輪像(重文)や奈良・長岳寺阿弥陀三尊像(仁平元年=一一五一、重文)の両脇侍にもみられるが、本像のような巨像には類例がない。玉眼を嵌入する目の左方分は現在後補にかわっているものの、右方分の眼球を表す水晶は当初なので、製作時より玉眼を嵌めていたものと考えられる。
作者とされる康助は文献史料の上から細かな材を矧ぎ合わせる木寄せ法を行ったことが知られるが、本像の構造はそれに類するものといえよう。玉眼嵌入もこの時期としてはきわめて古例で、製作時期のわかるものでは長岳寺像に次ぐ二例目となる。
康助は定朝以後三代目の正統派仏師であるが、鳥羽院政期という平安後期にあってこのような新技法を用い、かつ斬新な作風を生み出していることはこの時期における奈良仏師の先取性を示すもので、鎌倉新様式確立を考えるうえで誠に貴重な一作である。