本文書は足守木下家に伝わった文書群である。足守木下家は、豊臣秀吉の正室ねねの兄木下家定を初代とし、代々備中足守藩の藩主を務めた。木下足守家に伝来した、秀吉とねねのもとに残された文書と小早川秀秋に充てられた文書を中心に、その多くは豊臣家文書として令和元年重要文化財に指定された。本文書は、もとこれらの文書と一括のものであったが、昭和三十年代に大阪市が購入し、現在、大阪城天守閣に所蔵されている。
豊臣秀吉辞世和歌は、秀吉が死に臨んで詠んだ辞世の和歌「つゆとをちつゆときへにしわがみかな/なにわの事もゆめの又ゆめ」である。自筆で認められたもので、ややかすれた文字で記されている。豊臣家家臣等血判起請文は、前田利家以下重臣・奉行・家臣ほかが秀頼への忠心を誓ったものなど一〇通である。神文には熊野の牛王宝印(本宮・新宮・那智)を使用している。豊臣秀吉朱印状幷慶長役陣立書は、ともに慶長二年二月二十一日の日付をもち、一体のものとして惣大将小早川秀秋に渡された。どちらにも先陣以下の陣立や城々への諸将の配置ほかが記され、秀吉の朱印が捺されている。前年九月一日、秀吉は明冊封使楊方亨を大坂城で引見したが、講和には至らず、朝鮮への再派兵を命じていた。
このように本文書は、非常に有名な秀吉辞世和歌、多くの血判起請文、さらに慶長役関係文書など豊かな内容を含んでおり、秀吉の人物論や豊臣政権の内政・外交にわたる研究上、きわめて価値が高い。