第一次世界大戦中,ドイツとの戦争に伴い発生したドイツ兵俘虜(俘虜とは現在の捕虜のこと)を収容した施設であり,徳島県北東部の鳴門市内西部,阿讃(あさん)山地(さんち)南麓の南側に開けた扇状地上に位置する。大正6年(1917)4月の開所から大正9年(1920)4月の閉所まで約3年間,最大1千名余の捕虜を収容した。所内には,日本側の管理棟,将校用及び下士官以下の兵舎(「廠舎(しょうしゃ)」),浴室・調理場・便所・病院・製パン所等のほか,捕虜自身が建築した施設も多数存在した。日本側は,ハーグ陸戦条約に則り,捕虜に対して人道的に対応し,管理者の運営方針もあって,スポーツや音楽,演劇,講演会等が活発に行われた。捕虜製作品の展示・販売や,地域における橋の建設,地域住民と行った生産活動や文化活動等を通じ,捕虜と周辺住民との間に交流も芽生えた。平成19~23年度に鳴門市教育委員会が廠舎や製パン所等の発掘調査を実施し,収容所の遺構が良好に残ることを確認した。捕虜の文化的活動等を物語る資料も豊富に残る。第一次世界大戦に関する遺跡として希少なものであるとともに,交戦国間における文化交流を象徴する遺跡として重要である。