本車輌は鉄道省が発注し、昭和十年(一九三五)から同十二年にかけ、キハ四二〇〇〇形式として合計六二両が製造された旅客用の機械式気動車のうちの一両である。「気動車」は一般的に内燃機関を動力として使用する鉄道車輛のうち、機関車以外の車輛を指して用いられる。
鉄道省は、短距離の高頻度・高密度輸送に適した車輌として、簡便で機動力のある気動車の導入を図り、キハニ五〇〇〇形(昭和四年)、キハニ三六四五〇形(昭和六年)、キハ四一〇〇〇形(昭和七年~十一年)と車輌を発注する中で、軽量化、量産化を達成していった。
キハ四二〇〇〇形は、キハ四一〇〇〇形の設計を基本としながら、車体長を一六メートルから一九メートルへ拡大するなど種々の改良を施した車輌である。車体は外枠と台枠を鋼製とし、室内を木製とした半鋼製車体とし、台車は軸距を二メートルに拡大した菱枠台車のTR29形を、軸箱は日本精工製の国産コロ軸受を採用した。軽量化に注力し、自重は二五・五トンであった。
両端に運転席を配置し、乗降用の片開引戸を片側三箇所づつ設けた。座席は乗降口付近をロングシートとしたセミクロスシートで、定員は座席六八名、立席五二名の一二〇名であった。
新製時は国産水冷式ガソリン機関(定格出力一五〇馬力/一五〇〇RPM)のGMH17形が搭載され、動力はクラッチ・変速機・推進軸を直列に配置して逆転機を介して動軸に伝達された。
新製時にはキハ四二〇五五号と付番された本車輌は宮原機関区、姫路機関区、高岡機関区を経て、昭和三十二年に豊後森機関区に転属し、九重山麓を走る宮原線(恵良ー肥後小国間)にて昭和四十四年まで使用された。
この間、昭和二十七年三月にディーゼル機関への換装が行われ、車輌番号はキハ四二五四〇号に、同三十二年には車輛称号規定改正によりキハ〇七形四一号に再び変更された。
昭和戦前期の流行であった流線型車体の本車輌は、車体や内装の多くに新製時の姿をとどめ、昭和初期の旅客車の現存例として重要である。加えて、機械式の変速装置が残される唯一の同形車輌として注目される。車体の大型化と軽量化、ガソリン機関の出力向上と運行速度の高速化、車輌の国産化と標準化を達成したキハ四二〇〇〇形気動車として、我が国の気動車の技術発達史を俯瞰するうえで貴重であり、鉄道史、社会・経済史、科学技術史上に重要である。