日待とは民間信仰の行事で、前夜から潔斎して日の出を待つものであったが、近世には徹夜の遊興が行われるようになった。本図は正月には仕舞と人形芝居の二図、五月には楊弓、碁、謡い、女舞等の一図、九月に群舞の長い一図を描き、武家の邸内で繰り広げられる日待のさまざまな風俗をいきいきと描き出している。 筆者の英一蝶(一六五二~一七二四)は、狩野派の門人として絵画の本格的な素養を身につけ、新興都市江戸の風俗画家として地歩を築きつつあったが、四七歳であった元禄十一年(一六九八)から一一年間三宅島へと遠流になった。本図は巻末にある正徳元年(一七一一)の自筆追記に「謫居」とあることから三宅島で描かれたものと知られる。また、元禄十六年(一七〇三)に表具されたことが巻末の墨書によって判明する「吉原風俗図巻」(サントリー美術館)より早い時期の制作と考えられている。 本図の細やかな人物表現は生彩に富むものである。市井の人びとのありのままの生活や遊興の描写は一蝶が最も得意とした題材であるが、本図にはそれらが多数集成された感がある。 画面構成においては、一巻を通じて季節ごとの日待を描き列ねながら、同時に当日屋敷へと寄り集まる人びとの描写から巻末の日の出までの一夜の経過をも緩急巧みに描いており、いわば時間の経過が重層的に表現されている。さらに、巧みな場面転換、景物の布置を工夫した時間表現には、古代以来の絵巻物の画面構成方法が踏まえられている。この点、巻末の調理場の場面が、室町時代の制作である「酒販論絵巻」(文化庁保管)に基づいていることは注目される。これらから、一蝶がきわめて正統的な絵画の制作技術を身につけた画家であることがわかる。 本図の主題構成は、冒頭の格式張った仕舞の場面から、夜が深まるにつれてしだいに高まる興奮を表しているが、遊興の最高潮は障子の向こうに影法師のみで表して鑑賞者の想像を掻き立て、巻末は遊興から一転して調理場で働く人びとの場面となり、水くみに集中するあまり日の出に気づかないという機知的な結末に至る。