木造不動明王坐像 もくぞうふどうみょうおうざぞう

彫刻 / 平安

  • 平安
  • 1躯
  • 重文指定年月日:20030529
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 神泉苑
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 頂蓮(八方二段)を戴き、両目を見開き歯牙下出する不動明王の等身像である。巻髪(毛筋をあらわさない)にし、弁髪【べんぱつ】が左耳後ろより捻れて垂れ、面部両端より炎髪(三条)が天冠(列弁、紐二条。正面に花飾付)にかかる。眉根を寄せ眉間に瘤をあらわし、上歯牙で下唇を噛む。条帛、裙、腰布(折返一段、帯で結ぶ)を着け、臂釧(紐一条、列弁)、腕釧(連珠文帯の上下に紐一条、列弁。中央に花飾付)を付ける。両腕は臂を屈し、左手は胸の高さで掌を仰げて持物(羂索)を執り、右手は膝上で持物(宝剣)を執る。正面を向き、右足を上にして結跏趺坐する。
 頭体幹部をヒノキの一材(木心を背面中央やや右よりに籠める)、体部に蟻〓の造り出しを造り、両足部(横木一材製)に矧ぎ付ける構造になる。両足部は地付から約一〇センチメートルの高さに内刳るが、体幹部には背刳り等を行わない。両腕は上膊外側、肘、手首で各矧ぐ。
 弁髪を左側頭部から左耳後ろを通って垂らすのは珍しく、彫像には類例が少ない。『不動図巻』所収の玄朝【げんちょう】様不動御頭并二使者像(醍醐寺、重文)に同様な図像が認められ、共通する時代的特徴がうかがえる。側頭部で炎髪が天冠にかかる形式は奈良・玄賓庵像(重文)や岡山・勇山寺像(重文)等、一〇世紀末から一一世紀ころの類例が見られる表現である。多様な図像の存在した平安後期にあって新様の図像を積極的に用いている。
 大きめの頭部に図像的な特徴を集中的にあらわし、体部は穏やかに仕上げられる。肩腕等は太く、量感ある体躯は京都・同聚院像(寛弘三年=一〇〇六、重文)、滋賀・園城寺像(長和三年=一〇一四、重文)などに見る一一世紀前半ころにその製作が求められよう。
 神泉苑【しんせんえん】は、平安京大内裏の東南に接して離宮として造営され、遷都後まもなく桓武天皇が行幸して以来、歴代天皇がしばしば行幸する天皇遊覧の場所であった。その後、弘仁のころに請雨修法が行われ、雨乞い修法の場として著名となった。神泉苑における密教僧の祈雨修法は盛んに行われ、なかでも小野流の始祖とされる仁海【にんがい】(九五一~一〇四六)はたびたび神泉苑において修法を行っている。しかし祈雨の本尊は善女龍王とされるので、不動明王が本尊となることはない。元慶四年(八八〇)には同地において止雨の修法が行われており、『覚禅鈔』等によれば不動明王が止雨法の本尊になることがあるので、本像は止雨の本尊として製作されたと考える余地はあろう。
 本像の製作は一一世紀前半に位置づけられ、玄朝様図像による斬新な図像表現の採用により製作された本像は、その先取性を示すものである。図像の特異性が強調された頭部に対して、体部は歪みや破綻がなく、安定感あるなかにも衣文の穏やかな表現に洗練された作行がうかがえ、一一世紀ころの不動明王の様式を考えるうえで貴重な一作となろう。

木造不動明王坐像

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