興福寺北円堂 一棟
興福寺は藤原鎌足の発願、同夫人によって伽藍が起された山階寺が、のち飛鳥浄御原に移されて厩坂寺と呼ばれ、さらに都が平城京に移るに及び鎌足の子不比等によって現在の地に造営されたところである。北円堂は養老五年(七二一)不比等の一周忌にあたり建立されたが、永承四年(一〇四九)と治承四年(一一八〇)に焼失し、現在の堂は承元元年(一二〇七)に着工し、同四年(一二一〇)に露盤をあげたものである。
八角円堂で四面に板扉を構え、その間に連子窓を設ける。組物は隅行に三手先となり、中備は平三斗で、組物官に間斗束を入れる。軒が三軒であるのは珍しく、地垂木が断面六角形であるのもほかに類例がない。屋根上の棟飾は一部嘉永三年(一八五〇)の修理で改められたが、なお当初の華麗さを伝えている。円堂の内部においては八本の内陣柱を立て、内陣の間斗束には笈形様の彩色文様を描いており、内陣の中央には八角の天蓋を設けている。
北円堂は平面においては創建当初の大きさを保っているが、細部は鎌倉時代前期の様式をよく表しており、三重塔(国宝)とともに鎌倉時代再建の興福寺の様式を示す重要な遺構である。
【引用文献】
『国宝辞典(四)』(便利堂 二〇一九年)