法隆寺大講堂
金堂、塔の中央後方に離れて建つ大建築で、金堂よりもはるかに大きい。現在両脇に回廊が取りついているが、もとは北回廊は金堂・塔を囲んで南方で閉じられ、創建堂の両脇には東西棟の北僧房が建てられていた。
旧堂が延長三年(九二五)に焼失、現在の建物は正暦元年(九九〇)に再建された(『別当記』)。再建後たびたびの修理改造をうけていて、中世に西側に庇が設けられ、元禄の修理にこの部分を取りこみ、西側柱を移動させてそのあとを補い、九間堂に改めた。したがって創建堂も現堂の再建時も、桁行は八間であった。昭和の大修理で軒・小屋組・造作などは再建当時の形式に復原されたが、桁行は九間のままになっており、本来は柱列が重複する西方一間分だけ短い。
壇上積基壇上に立ち、組物は側・入側とも平三斗、中備間斗束、繋虹梁を入れ、母屋は断面馬蹄形の桁の上に大虹梁を架け、周囲は化粧屋根裏、母屋は大虹梁の下に組入天井を張り、三間の来迎壁と仏壇を設ける。軒は二軒で、垂木上に木舞をあみ、垂木の間は土壁で仕上げ、化粧垂木の上に別に野小屋を設けて、奈良時代の技法より国風化している。
創建堂は全体の規模位置は同じであるが、庇の柱間は現堂のほうが大きい。『資材帳』には大講堂はみられず、かえって食堂の規模がこれと一致し、創建堂の礎石が古材転用であることなどとともに、創立沿革に複雑な事情があったことを思わせる。
【引用文献】
『国宝大辞典(五)建造物』(講談社 一九八五)