白樫氏関係資料は、武士の肖像画及び賛が表装された掛け軸と木製の位牌で、深専寺に納められている。『湯浅町誌』によると、白樫氏は室町時代の武士で代々深専寺に帰依し、当寺の大檀那として寺運興隆に尽くしたという。永正年中(1504~1520)伊賀の国の武士白樫実則は高城城主 畠山尚順の部下となり、当地に移り住んで廃寺となっていた満願寺跡に屋敷を構えた。実則の子実房は、高城落城後、満願寺山に居城を築き当地方を支配した。実房の子只光は、豊臣秀吉に内応し、天正13年(1585)紀州攻めの折、只光の勲功に秀吉から知行が与えられ、以来豊臣氏に仕えた。元和元年(1615)豊臣氏滅亡の後、只光は鷹島で自刃したという。
肖像画の年代と作者は不明であるが、17世紀前半(1600~1650)に描かれた可能性が高い。賛の漢詩には慶長2年(1597)の年号と京都の禅林寺の住職 果空俊弌(かくうしゅんいつ)の名と花押が記されている。位牌には、札板の表面に「當寺大檀那秀月宗悦禅定門」、裏面に「永禄五(壬戌)天五月廿日」と文字が刻まれている。嘉永4年(1851)に刊行された紀州の地誌『紀伊国名所図会後編』の「玉光山深専寺」の項には「願主は白樫左衛門尉法名秀月宗悦居士なり。今白樫の像を蔵む」と永禄5年(1562)の位牌に彫られた白樫左衛門尉の法名が記されており、深専寺所蔵の肖像画と賛を模写した挿絵が描かれている。
肖像画が描かれたのは賛の漢詩よりも後と思われるが、少なくとも『名所図会』が編纂された時代にはこの二つは一緒になっていたことから、必ず何らかの関係性があると考えられる。
白樫左衛門尉の肖像画及び賛と位牌は、室町時代の終わりから江戸時代最初期にかけて湯浅を統治した白樫氏に関するものとして『名所図会』でも紹介されている数少ない資料である。