勧修寺聖教
附 聖教箱 かじゅうじしょうぎょう
 つけたり しょうぎょうばこ

歴史資料/書跡・典籍/古文書 文書・書籍 / 平安 鎌倉 南北朝 室町 安土・桃山 江戸

  • 平安~江戸時代
  • 2366点
  • 重文指定年月日:20200930
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 国宝・重要文化財(美術品)

勧修寺聖教は、真言宗寺院である勧修寺(京都市山科区)の経蔵に伝来した聖教のまとまりである。勧修寺は醍醐天皇が母后藤原胤子の菩提を弔うため、外戚である藤原定方により昌泰三年(九〇〇)に建立された。朝廷や藤原氏の信仰が厚く、伽藍が整備されている。はじめ東大寺の承俊律師を迎えて、その高弟済高が別当職に任じられた。その後、特に寛信(一〇八五~一一五三)は秘密事相にすぐれ、真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされる。鎌倉時代、後伏見天皇第七子寛胤法親王が入寺してからは、代々法親王の門跡寺院として栄えたものの、南北朝の兵乱と文明二年(一四七〇)の兵火で伽藍が焼失して一時衰退する。元禄八年(一六九五)済深が東大寺大仏殿再建に尽力したことにより千石余に加増され、明治維新に至った。
 勧修寺聖教には、寛信自筆の『敦造紙』や『宝物目録』、長暦三年(一〇三九)の奥書のある『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』、元禄五年(一六九二)東大寺大仏開眼供養に関する聖教ほか、貴重なものが多く含まれている。
 このように勧修寺聖教は、真言宗勧修寺流の拠点として活動してきた勧修寺に集積されたものであり、流祖寛信以後の聖教は膨大な点数に上るとともに、その質の面でも見るべきものが多くあり、仏教史研究上、真言密教研究上、極めて貴重である。

勧修寺聖教<br />
 附 聖教箱

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