鎬造、庵棟、やや猪首風の中鋒。重厚く身幅広い。鍛は小板目よく約み小糠肌となり、一部に地景入る。刃文は広直刃で刃縁沸つき、物打付近に二重刃あらわれる。帽子は表裏とも小丸に返る。茎は生で先刃上り栗尻、鑢目切、目釘孔3つ開く。指裏に太刀銘「肥前國住人忠吉作」を切る。新刀期を代表する刀工として知られる忠吉は、もと肥前の大名龍造寺家の家臣であったが、幼少の頃に祖父・父の相次ぐ死去に伴う家禄断絶を受けて刀鍛冶の修行に入った。慶長元年(1596)に上京、埋忠明寿の門に入り鍛刀を学んで3年後に帰国し、佐賀藩お抱え工として活躍した。初代忠吉の銘は当初「肥前国忠吉」と五字銘に切ったが、慶長末期頃から元和十年の武蔵大掾受領までは本品のように「肥前国住人忠吉作」(住人銘)と切ることが知られている。従って、本品も概ねこの頃の作とみてよい。