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芦浦観音寺跡

あしうらかんのんじあと

概要

芦浦観音寺跡

あしうらかんのんじあと

社寺跡又は旧境内 / 近畿 / 滋賀県

滋賀県

草津市

指定年月日:20040930
管理団体名:草津市(平17・6・17)

史跡名勝天然記念物

芦浦観音寺跡は、草津市の北部、守山市と接する芦浦町に所在し、南を走る志那街道を介して東は中山道の宿駅である守山宿、西は草津三港の一つである志那港へと通じ、琵琶湖を隔てて比叡山とも指呼の間にあり、湖南東部の水陸両交通の要衝に立地している。
寺は、寺伝によれば聖徳太子開基、秦河勝創建の伝承を有しており、当地域は白鳳期の瓦が確認され、観音寺廃寺の名称で白鳳寺院跡として周知されている遺跡である。この寺は古代末から中世にかけて衰退したが、応永15年(1408)歓雅が天台宗寺院として中興したとされている。
その後、戦国期から江戸期にかけての八世賢珍、九世詮舜、十世朝賢の時に観音寺は政治的に大きく力を付けていく。九世詮舜は、豊臣秀吉の下で近江国内の蔵入地の代官と琵琶湖湖上水運全体を管掌する船奉行として活躍し、十世朝賢は湖南・湖東を中心とする幕領約24,000石の代官及び船奉行となり、また永原御茶屋御殿の作事奉行にもなっている。
現在、境内には重要文化財に指定されている室町期の建物で明治期に境内に移築された観音寺阿弥陀堂や江戸初期建立の観音寺書院、重要文化財を含む多くの什器、古文書、歴史資料を所蔵する蔵や門が所在する。江戸初期のものとされる「芦浦観音寺境内絵図」に描かれた歴代住持が政務を執った政所は、明治に入って取り壊されていて現存しない。一方、寺の周囲には幅3.6mから8.2mの規模の堀が巡り、堀の内側には幅6.4mから8.0m、高さ2mの規模をもつ土塁が築かれ、表門周辺では石垣が築かれており、境内は中・近世の城郭を想起させる特異な寺観を有している。また、発掘調査の結果、中世末から江戸初期にかけて掘られ江戸末に埋没した境内を南北に分ける内堀の存在も確認されている。
境内の西側は、現在歴代住持の墓地を含み、その周囲は農地となっているが、絵図には堀と竹垣に囲まれた建物が描かれており、寺と一体の施設があったところと想定される。また、北側には、守山宿から琵琶湖に向かって流れている堺川があり、内陸水運路として機能していたと考えられている。この堺川と寺の堀は水路により繋っており、船奉行としての芦浦観音寺の性格を考えると堺川に通じる北側一帯は重要な地域であるといえる。
このように、芦浦観音寺跡は、戦国期から江戸初期にかけて、豊臣・徳川の天下統一事業に深く関わり、特に琵琶湖湖上交通全体を管掌する船奉行として重要な役割を担った寺跡である。また、現在も室町から江戸期の建物が多く残っており、かつ城郭を思わせる寺観は、寺の歴史的役割を具現する遺構と考えられ、我が国の中世から近世に至る歴史を考える上で重要であり、史跡として指定し、保護を図ろうとするものである。

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キーワード

戦国 / 中世 / /

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