敏満寺石仏谷墓跡
びんまんじいしぼとけだにはかあと
概要
敏満寺石仏谷墓跡は、滋賀県中部の琵琶湖東岸、湖東平野に面した青龍山西麓斜面、標高約180mに立地する。敏満寺は鎌倉時代初期に僧重源が東大寺再興に際して銅製五輪塔(重要文化財)を寄進した寺院で、中世に大きな勢力を有していたが、戦国期に浅井氏・織田氏との攻防により16世紀後半には衰退した。寺院の中心部は現在の胡宮神社境内付近と考えられ、その坊院跡と見られる平坦面が周辺に広がる。さらにその北側には15世紀から16世紀の城郭や町屋の遺構が大規模に展開し、大きな寺院勢力として城塞化していたことがうかがえる。
墓跡は胡宮神社の南側に隣接する南谷と称される地区にある。多賀町教育委員会では平成7年度から16年度まで測量や内容確認のための発掘調査を行った。墳墓は埋葬のための墳墓域とその下方の付属施設からなり、一辺80から90mの規模である。墳墓の分布は約60m四方の範囲に及び、一面におびただしい数の礫のほか石仏・石塔が大量に露出しており、その数約1600に達する。礫と石造物の分布範囲の北端付近に、約30mの距離に3つの巨石があり、墳墓域の境界を示すと推定される。
発掘調査は部分的に行ったのみで、詳細な構造は不明なところがあるが、斜面を雛壇状に平坦面を造成して墳墓を造っている。地形や礫・石造物の分布状況から墳墓のまとまりは50以上認められる。墳墓は数mの平面規模をもち、平坦面を造るもの、塚状の盛土を施すもの、これに小型の河原石で化粧するものもある。その一画に墓標か追善供養のための石塔を配するものが多い。墓跡の後半の時期に相当する15・16世紀段階には後部に石仏や一石五輪塔を複数立て並べている。一つの区画に墓穴は複数あり、なかには30近いものもある。蔵骨器を埋置するものと埋納坑だけのものがある。蔵骨器は四耳壺や水注を使用し、これに碗を組み合わせるものや、火葬骨が多量に納められた大甕もある。墳墓域の中央下部から三方に登る墓道が確認される。南側の道には小堂が想定される平坦面が2箇所接している。下方には平坦面が10箇所程度ある。基壇や礎石・雨落溝が確認され、建物跡の存在が推定されるものがある。また、焼土や焼石の出土から火葬場の可能性がある箇所もある。
蔵骨器として使用された焼物は瀬戸・美濃と常滑が多く、ほかに渥美・信楽・備前・越前・珠洲、中国陶磁など多様な産地のものが確認される。これらの遺物から見て、墳墓が営まれた時期は、13世紀から16世紀後半までと考えられる。石造物には傑出したものはなく、被葬者は比較的等質な階層と推定される。敏満寺の寺域の南端に位置すると推定されることや寺院の盛衰と消長をともにすることから、寺院に関連した人々とも想定される。