清水山城館跡
しみずやまじょうかんあと
概要
清水山城館跡は、滋賀県の西北部、琵琶湖の西岸に位置する高島氏の城館跡である。13世紀初め、近江源氏佐々木氏の一族、高島七頭が高島郡に割拠する。その惣領家が高島(佐々木)越中家であり、本拠が清水山城館跡である。『信長公記』によると元亀4年(1573)に織田信長が浅井・朝倉連合軍との攻防の中で高島郡の木戸城・田中城を攻撃した記事があり、このうちの木戸城が清水山城と想定されている。清水山城館跡は、山城跡、清水山遺跡及び本堂谷遺跡で構成される。
山城跡は、饗庭野台地の南東部に位置し、標高約210mに位置する主郭を中心に北西・南西・南東の三方の尾根上に曲輪を配置する放射状連郭式の山城跡である。また、畝状空堀群が主郭南面と北方の曲輪群の2箇所に設けられている。畝状空堀群は、近江地域ではあまり見られないが、永禄期以降浅井・朝倉氏勢力の影響により築造技法が伝わったものと考えられる。平成8年度から、主郭及び南東に延びる尾根上の曲輪の調査を実施した。主郭は、東西約55m、南北約60mの規模をもち、L字状を呈している。主郭のほぼ中央から石段やかまど状遺構を伴う礎石建物が検出された。建物跡は、桁行6間、梁行5間の規模をもつ南北棟で、会所機能を兼ね備えた御殿と考えられている。出土遺物は、越前焼などの国産陶磁器や輸入磁器等のほかに金属器、硯などがある。いずれも16世紀第2から第3四半期の時期に相当するものが多い。
清水山遺跡は、山城跡の南に広がる山腹一帯に所在し、標高130mから170mに位置する。遺構は、南北約350m、東西約550mの範囲に所在し、西屋敷、東屋敷、越中殿、加賀殿、大木戸、小木戸などの地名も残る。西屋敷地区では、山麓から幅約10mの道状遺構が南北に縦断し、その両側には土塁や道によって方形に区画された曲輪が碁盤の目のように並び、区画内にそれぞれ井戸が確認され、生活単位として機能していたことがわかる。この地は、天台寺院清水寺の推定地とされ、調査により五輪塔の石材を転用し、礎石とした建物跡も検出されていることから、寺坊跡を屋敷地とした可能性もある。なお、出土遺物は、16世紀前半のものが主流である。
本堂谷遺跡は、清水山遺跡の西側の標高約130mに位置し、佐々木氏の氏神を祀る大荒比古神社に隣接している。東西約270m、南北約180mの範囲に遺構は所在する。遺構は、二重の堀と土塁によって囲まれ、内部も堀と土塁によって区画し、各区画には井戸が認められることから清水山遺跡と同様の性格のものと考えられている。
このように清水山城館跡は、戦国期の在地の城館群を見る上で貴重な遺跡であり、かつ調査成果からも時期が想定できる遺跡であり、保存状態も良好なところから、我が国の戦国期の有力在地豪族の在り方を知る上で貴重であり、史跡として指定し、保護しようとするものである。