佐土原城跡
さどわらじょうあと
概要
佐土原城跡は、周囲を弁天山などの山塊で囲まれ、北を一ツ瀬川で限る位置にあり、内部に居館地域を含む中世から近世に当地域の支配に使われた城跡である。
佐土原城跡の所在する一帯は、鎌倉期以降、伊東氏の一族である工藤氏や田島氏が城を構えたとされる。応永34年(1427)に伊東氏が田島氏を滅ぼし佐土原城に入るが、特に天文5年(1536)、伊東義祐が城主の時に城を整備して日向48城の中心的城郭として機能することになる。伊東氏は、元亀3年(1572)の木崎原の戦いで島津軍に大敗を喫し、天正5年(1577)には日向を捨て豊後へ退くことになる。その後、日向は島津氏の支配下となり、佐土原城には、島津家久が天正7年(1579)に入った。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで2代豊久が亡くなり、佐土原は一時幕府領となったが、慶長8年(1603)徳川家康により島津以久が佐土原3万石に封ぜられると、佐土原城は、明治3年(1870)に広瀬へ移転するまで、居城として機能した。このように佐土原城跡は、中世から近世、当地を支配した伊東氏から島津氏に至る450年余、当地域の政治・経済・文化の中心として機能した城跡であった。
城跡は、南北二つの山塊からなる山城部と、山城部により南北と西の三面を馬蹄形状に囲まれた居館部とで構成される。山塊は、東西に縦断する切通により南北に分かれ、北部山塊は「弁天山」と呼ばれている。山城部の遺構は、南部山塊に集中している。南部山塊は、南北に延びる主尾根筋とそれから北東に延びる2本の枝尾根筋で構成され、主尾根筋上には北に本丸、南に南の城と称される曲輪を配し、南の城の南端には松尾丸を配している。また、弁天山には、時報の太鼓(後に鐘)が置かれていたとされる。それぞれの曲輪は堀、土塁等によって区画され、天守台跡、櫓台跡、城門跡等の建物跡も確認されている。居館部では、遺構として確認されているのは土塁と井戸跡である。江戸期の絵図によれば、土塁と堀と城門で谷開口部を閉ざし、城主館、各種役所、家臣団屋敷などが配置されていたことがわかる。
佐土原町教育委員会は、平成元年から居館部、山城部等の発掘調査を開始した。居館部の調査では、14世紀から19世紀の陶磁器や瓦の遺物や堀底幅15mの堀跡、礎石や掘立柱の建物跡、井戸跡、土塀跡、門跡などが検出された。堀跡東側の会所跡と想定される地域の調査でも、14世紀から19世紀の陶磁器と多数の掘立柱建物跡を検出している。また、御普請所跡の調査においては、17世紀を中心とした掘立柱建物跡と羽口や多くの鉄滓が出土した。山城本丸部の調査では、14世紀の陶磁器を伴う掘立柱建物跡や金箔鯱瓦を含む瓦、陶磁器等や天守台跡の遺構が確認された。天守台跡は、四方の石垣の基礎部が現存し、建物礎石も2個残存する。残存する礎石と抜き跡から桁行6間、梁行5間の規模の建物であったことが確認されている。
このように、中世から近世まで一貫して地域支配の拠点として使用された城跡は、我が国の歴史を考える上で貴重であり、かつ遺構の保存状態も良好なことから、史跡として指定し保護を図ろうとするものである。