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鎌刃城跡

かまはじょうあと

概要

鎌刃城跡

かまはじょうあと

城跡 / 近畿 / 滋賀県

滋賀県

米原市

指定年月日:20050302
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

鎌刃城跡は、米原町の東部の標高384mを頂点とする山稜に所在する中世の山城跡である。
城跡が位置する山稜は、京極領と六角領の境に位置し、この周辺には佐和山城・菖蒲嶽城・太尾山城・磯山城などが所在し、こうした城跡は境目の城として機能した。鎌刃城の築城年代は明らかではないが、『今井軍記』には文明4年(1472)の京極家の家臣による鎌刃城攻めの記事があることから、応仁の乱の時期には築城されていたものと考えられている。また、天文期には近江守護六角氏による鎌刃城在城の京極家家臣であった堀氏攻めが行われている。堀氏は、この時期六角氏側についたり、浅井氏側に属するようになったりしたが、元亀元年(1570)に織田信長に内応して、浅井氏に対抗するようになる。天正2年(1574)、堀氏は信長により改易され、城内に備蓄されていた米穀二千俵が徳川家康に与えられたことが記録に見え、この後鎌刃城は廃城となったものと思われる。
城跡の遺構の分布する範囲は、東西約400m、南北約500mを測り、江北地方では浅井氏の居城小谷城跡に次ぐ規模である。主郭を中心に北方尾根上に7箇所、南方尾根上に2箇所、西方尾根上に8箇所の曲輪を設け、主郭を含む一部の曲輪は周囲を石灰岩の石積みで構築している。また、尾根の先端はすべて堀切で防備され、西方尾根には連続竪堀群が見られる。
城跡は、平成10年度から3箇年にわたって米原町教育委員会により発掘調査が実施された。調査の結果、北方尾根上の曲輪からは半地下式の南北8間、東西7間と想定される大規模な総柱の礎石建物が検出され、大量の鉄釘も出土した。主郭の虎口などは直進する平虎口構造であることもわかり、主要な曲輪の石積みとともに織豊期以前の築城技術の到達点を見ることができる。また、石積みの天端を崩し、枡形などの虎口は石で埋めて使用不能にし、曲輪も土で埋めており、廃城時に行われた徹底した破城の実態が明らかになった。なお、出土した遺物は、調理具・貯蔵具・供膳具などが揃っており、城内で生活していたことが確認される。出土した陶磁器の年代からは、16世紀第2から第3四半期に位置付けられる。
石積み、枡形虎口などの築城技術や出土遺物から現在遺されている城跡の年代は、堀氏が浅井氏に属した永禄2年(1559)から織田信長による廃城までと想定される。
このように鎌刃城跡は、発掘調査により石積み構造、大規模な礎石建物が確認され、戦国期における山城の築城技術の到達点を見ることができ、かつ破城の実態が発掘調査により確認された数少ない城跡で、我が国戦国期の歴史や築城技術を考える上で貴重であり、史跡として指定し保護を図ろうとするものである。

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