佐敷城跡
さしきじょうあと
概要
佐敷城跡は、豊臣秀吉の九州平定に伴い天正16年(1588)に芦北地方を含む肥後半国19万石の領主となった加藤清正が、島津氏に備えるべく薩摩・肥後国境防備のための「境目の城」として築城したものと考えられる。天正15年(1592)、島津家家臣梅北国兼に一時占拠された梅北一揆の地であり、慶長5年の関ヶ原の戦に際しても西軍島津氏の攻撃を受けた。関ヶ原の戦後、清正は肥後一国51万石の領主となり、佐敷城跡は肥後国内の有力支城として整備されたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。寛永15年(1638)に細川氏により、前領主加藤氏の破城が不十分であったため、改めて石垣を撤去したことが知られる。本丸を中心に、その南に階段状に二の丸及び三の丸郭、尾根沿いに出丸郭を設ける、城下町と薩摩街道が走る城山東側を大手とし、枡形虎口を備えた城門が3つ連続する。本丸・二の丸・三の丸は総石垣造として注目され、特に大手側(東側)は高石垣を築造する。「天下泰平国土安穏」銘鬼瓦、桐紋入鬼瓦、Ⅲ期石垣に伴う「慶長十二年丁未」銘軒平瓦をはじめ多量の瓦が出土し、破城の状況もよく確認された。近世初頭頃の政治・軍事を理解するうえで重要な遺跡である。