広島城跡
ひろしまじょうあと
概要
天正十七年毛利輝元は郡山城から移って初めてこの地に築城、文禄二年工を竣えたといわれる。関原役後、毛利氏転封の後を承けて、福島正則これを領して修築を行ったが、元和五年幕府の忌■に觸れて封を奪はれ、同年七月浅野長晟これに代って領した。爾来山陽道の鎭として重きをなし明治維新に至り廃城となった。
城は太田川河口の平地中に営まれ、本丸は南北に稍々長い矩形をなしている。これを守って堀をめぐらし、大手虎口を堅めて堀の内に狹少な二の丸が設けられ、この本丸、二の丸は更に三の丸惣構によって囲まれている。いま遺るところの旧経始は本丸と二の丸及びその堀であって、他は早く失はれているが、天守台を始め、石垣、虎口等旧規よく遺存し、殊に島岐状に設けられた二の丸はこの種の遺構が多く失はれている現在、築城史上貴重である。