名古屋城跡
なごやじょうあと
概要
尾張を領した徳川義利(のち義直)の居城として、家康は自ら選んでこれを今川氏の古城柳丸城の地に定め、諸奉行諸大名に命じて、この造営に当らせた。工は慶長十五年一月に起り、未年に至って終えたものの如く、元和二年四月、義利は駿府からここに居を移した。爾後歴代ここにあり、海道の押えとして重きをなし、以て明治維新に至った。城地は北から西にわたりて低地をめぐらす平地を占めていて、南面を底とする梯形状を呈し、その北西部にあたって低地を背面とした広大な中枢部を置いている。即ち空濠をめぐらし、大手、搦手の虎口に馬出を構えた本丸を守って、その西から北にかけて御深井丸、塩蔵構を、西から南にかけて西之丸を配し、東から南東に二三丸を置き、大小天守台、塁濠には堅固な石垣を築いている。而して二之丸の東に接して御屋形があり、これらの地域の外郭としてあたかも前面を覆うが如くに南部に三之丸の広大な一劃が設けられ、土塁壘を築き、空濠をめぐらしている。今次の戦災によって大小天守閣を始めとして御殿櫓、門等多く失われたがなお厄が免れた建物が占綴して往時の美観を偲ばしめるものがあり整然とした郭の巧な配置は加藤清正の築いた壯大な大小天守台、枡形、馬出、塁濠堅牢な石垣と相まってよく旧規を伝え、近世城郭の代表的なものの一つとして学術上の価値が極めて高い。
S52-06-027[[名古屋城跡]なごやじょうあと].txt: 昭和7年12月12日史跡指定され、昭和10年5月15日一部追加指定され、昭和27年3月29日には特別史跡として指定された名古屋城は、江戸時代、尾張徳川家の居城であった。
現在の指定地は本丸とその周囲の堀、二の丸周囲の堀、及び三の丸の土塁・空堀であるが、今回これに名勝名古屋城二之丸庭園を含む二の丸内部と三の丸土塁のうち東北の未指定部分を追加して指定し、枢要部の保存に万全を期するものである。