座喜味城跡
ざきみじょうあと
概要
S52-12-057座喜味城跡.txt: 読谷村按司護佐丸によって築かれたと伝えられる座喜味城は、昭和47年5月15日、沖縄の本土復帰と同時に史跡に指定したが、アメリカ軍の基地として使用されていた部分は指定し得なかったので、返還されたのを機に追加指定する。
村道高志保・座喜美線建設のため現状変更を許可した西側の一部については指定解除する。
S47-5-167[[座喜味]ざきみ]城跡.txt: 沖縄本島西海岸の南部と中部の境、城原の山の上にあり、沖縄史上第一の築城家として名高い護佐丸が[[読谷山]よみたんざ]按司時代(1420年ごろ)の居城である。中山王[[尚巴志]しょうはし]の北山討伐に従った護佐丸が、一時今帰仁城で戦後処理にあたるが、やがてこの城を築き、読谷山一帯の広大な地域を確保し、北方の長浜港での貿易の利を掌握した。
城郭は丘陵の先端部に位置し、本丸の南側二の丸には第1・第2のアーチ型の城門があり、石垣がめぐらされている。本丸は二の丸より高く、もと5段の石の階段があったが今はない。本丸は、第2次大戦中日本軍の砲兵陣地となり、戦後は米軍の通信基地となっているが、石垣は意外によく残り、沖縄の城壁中でも見事なものである。護佐丸は数年後に中城城に移ったので、この城はまもなく廃城となるが、築城の技術、護佐丸の歴史上の役割からも、この城は重要である。