松山城跡
まつやまじょうあと
概要
加藤嘉明の縄張にかかり、嘉明は慶長七年起工、翌八年正木城からここに移ったが、工事は次の蒲生氏を経て久松氏に至りはじめて完成した。久松氏は寛永十二年移封後歴代ここにおり、その間天明の雷火によって天守閣等炎上の災もあったがよくこれを再建し、以て明治維新に至った。略々東西に長い独立丘陵に據り、その麓の低地をとり入れて営まれた城で南西を大手とし、北西を搦手とする。丘陵の略々中央から西にかけて、馬背状をなす頂上部に狹長な本丸を置き、その南西麓に広い谷状地を利して稍々高く二の丸を設け、これを大きく囲んで土塁、堀をめぐらす略々方状形の三の丸を低く置き、大手口を固める。また北西麓搦手に北郭を設け、南東麓に東郭を配して、登はん路を扼している。本丸は近時屡々火災の厄に遭ったが、なお天守閣を始めとして櫓、門、塀、石垣等見るべきものが多く、二の丸は石垣が略々完存し、三の丸も亦よく旧観をとどめている。北郭はすべて失われたが、東郭はその石垣を存している。全体を通じて改変のあとはあるが、遺構はよく保存され、郭の配置は要を得、本丸、二の丸の通路また堅固を極め特に二の丸から山腹を縫って、本丸の大手附近に達する石垣は類例稀で、近世における城郭として、価値ある遺跡である。