湯築城跡
ゆづきじょうあと
概要
湯築城跡は,松山市街地の東部,古くからの温泉地として知られる道後温泉の入口に位置し,石手川右岸の扇状地に北からのびる高縄山系の丘陵南端が突出する場所にある河野氏の城跡である。
湯築城跡は,南北350m,東西295mの長い隅丸の亀甲形をなし,中央の比高差31mの丘陵部を中心とし,内側に土塁を伴う堀を二重に築いた平山城である。
河野氏は,伊予国越智郡を本拠とする在地の豪族であったとされ,古代末期には武士化して,中予・東予の実権を握っていったものと考えられる。平安時代末の通清の時代には,風早郡河野郷に本拠を移した。源平の戦いで活躍し,鎌倉期には御家人となり,家臣団を構成するようになる。なお,一族には,時宗開祖の一遍もいる。河野氏は,その後元寇の時に水軍を率いて活躍し,伊予国における地位を確固としたものとしていった。足利尊氏の挙兵に対しては,足利方に味方し,この頃に温泉郡湯築城を築城したものと伝えられる。室町期には,河野氏は伊予国守護職に任ぜられ,応永の乱や嘉吉の乱,応仁の乱などで活躍したが,一方で讃岐の細川氏の国内への侵攻や,河野氏内部の惣領家と分家である予州家との対立があり,戦国期には家臣団の内訌や在地勢力の反抗などで力を落とし,天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国攻めによる小早川隆景らの攻撃で滅亡することになる。その後湯築城は,廃城となった。江戸期には,松山藩が城跡を管理し,年数回の祭礼の時のみ開放されたとされ,遺構はそのまま残された。
明治期に入り,当地は明治19年(1886)に道後植物園となり,21年(1888)には県立道後公園として活用され,域内に遊園地・県立道後動物園・松山市子規記念博物館などの施設が配置された。昭和62年(1987)の動物園の移転に伴う,跡地利用のための発掘調査により,湯築城跡の遺構が良好に保存されていることが確認された。
調査は,動物園地区を中心に昭和63年度から平成11年度まで実施され,湯築城が拡張・整備されたとする16世紀前半以降の4時期にわたる遺構面が確認された。また,城跡南東側には庭園を持つ屋敷群,南西側には家臣団のものと想定される8区画の屋敷跡,その屋敷群と丘陵地区とを画する内堀などが検出された。出土品としては,青磁や青花の盤・大皿・鉢などの輸入陶磁器が多量に出土している。その他,城跡内の確認調査によって,丘陵部の頂部の郭と北側の郭を画する堀切,丘陵各所に所在する小郭群の礎石建物,鍛冶遺構,土器投棄土抗,丘陵と屋敷群を画する内堀とそれに伴う土塁,搦手門の遺構などが検出され,江戸期に描かれたと想定される『湯築古城図』の配置と良く合っていることが確認された。
このように,発掘調査により,守護大名として伊予国に君臨した河野氏の城館である湯築城跡の内容が確認され,現状で残っている外堀・外堀土塁や丘陵部以外の遺構も保存状態が良好であることが確認された。湯築城跡は,戦国時代における伊予国の歴史を考える上で重要な城館跡であり,史跡に指定し,保護を図ろうとするものである。