湯築城跡 ゆづきじょうあと

城跡 / 中国・四国 

愛媛県
松山市道後公園
指定年月日:20020920
管理団体名:
史跡名勝天然記念物

湯築城跡は,松山市街地の東部,古くからの温泉地として知られる道後温泉の入口に位置し,石手川右岸の扇状地に北からのびる高縄山系の丘陵南端が突出する場所にある河野氏の城跡である。
湯築城跡は,南北350m,東西295mの長い隅丸の亀甲形をなし,中央の比高差31mの丘陵部を中心とし,内側に土塁を伴う堀を二重に築いた平山城である。
 河野氏は,伊予国越智郡を本拠とする在地の豪族であったとされ,古代末期には武士化して,中予・東予の実権を握っていったものと考えられる。平安時代末の通清の時代には,風早郡河野郷に本拠を移した。源平の戦いで活躍し,鎌倉期には御家人となり,家臣団を構成するようになる。なお,一族には,時宗開祖の一遍もいる。河野氏は,その後元寇の時に水軍を率いて活躍し,伊予国における地位を確固としたものとしていった。足利尊氏の挙兵に対しては,足利方に味方し,この頃に温泉郡湯築城を築城したものと伝えられる。室町期には,河野氏は伊予国守護職に任ぜられ,応永の乱や嘉吉の乱,応仁の乱などで活躍したが,一方で讃岐の細川氏の国内への侵攻や,河野氏内部の惣領家と分家である予州家との対立があり,戦国期には家臣団の内訌や在地勢力の反抗などで力を落とし,天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国攻めによる小早川隆景らの攻撃で滅亡することになる。その後湯築城は,廃城となった。江戸期には,松山藩が城跡を管理し,年数回の祭礼の時のみ開放されたとされ,遺構はそのまま残された。
明治期に入り,当地は明治19年(1886)に道後植物園となり,21年(1888)には県立道後公園と…

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