樺崎寺跡
かばさきでらあと
概要
樺崎寺跡は、国指定史跡の足利氏宅跡(鑁阿寺)の北東約4.5km、樺崎川が開析した小支谷に八幡山を背に東面して寺域が展開する、足利氏の氏寺跡、廟所跡である。永享年間(1429~41)作成と推定される「鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第」(鑁阿寺文書)によれば、樺崎寺は、源姓足利氏2代目の義兼が文治5年(1189)の奥州合戦の戦勝祈願のために創建した。この頃に最初の堂舎、後の赤御堂が建立されたと推定され、赤御堂の南東前面には、中島と立石景石を持つ東西約70m、南北約150mの浄土式庭園が営まれた。「縁起」には「右当寺者為代々先君御菩提所、都鄙之将軍家御墓、五輪石塔並甍」と記されている。
義兼は源頼朝の義兄弟で、鎌倉幕府草創期の有力御家人として活躍した。義兼は建久6年(1196)に東大寺で出家し、樺崎寺で念仏三昧の日々を送り、正治元年(1199)に同寺で入定し、赤御堂殿と称された。鎌倉時代中頃にかけて諸堂塔が順次建立され、焼亡した堂舎も鎌倉時代後期には貞氏、尊氏の援助により復興を遂げた。樺崎寺は鎌倉公方が参詣すべき祖霊の地で、第5代の鎌倉公方持氏は応永28年(1421)に父満兼の「勝光院殿御追善十三回并御廟供養」を行っている。樺崎寺は足利氏、鎌倉公方の隆盛とともに繁栄したが、15世紀中頃以降は徐々に衰退した。
足利市教育委員会は、昭和59年度から平成11年度まで16次にわたる発掘調査を実施し、古文書や絵図史料に記載されている供養石塔跡、堂舎跡、僧坊跡、浄土式庭園跡などを検出した。確認された遺構の分布は東西約200m、南北約300mの範囲に及ぶ。八幡山の南東側…