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浄光明寺境内・冷泉為相墓

じょうこうみょうじけいだい・れいぜんいためすけはか

作品概要

浄光明寺境内・冷泉為相墓

じょうこうみょうじけいだい・れいぜんいためすけはか

社寺跡又は旧境内 / 鎌倉 / 南北朝 / 室町 / 安土・桃山 / 関東

神奈川県

中世

鎌倉市扇ヶ谷

指定年月日:19270408
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

淨光明寺ノ後ナル丘陵ニ在リ爲相ハ永仁三年鎌倉ニ下リ嘉暦三年此ノ地ニ薨ス今ノ墓石ハ徳川光圀ノ建ワル所ナリ高サ六尺三寸ノ寶筐印塔ニシテ石玉垣ヲ周ラン墓域内ニ数基ノ石燈籠アリ
 冷泉為相墓は、神奈川県の南東部に位置し、鶴岡八幡宮境内西側の扇ガ谷の支谷、泉ヶ谷の浄光明寺境内に所在する。昭和2年に浄光明寺境内の阿弥陀堂裏山平場の石塔を冷泉為相墓として史跡指定した。石塔は南北朝時代の様式を良く示す宝篋印塔である。冷泉為相は、所領等をめぐる相論のためにしばしば鎌倉に下向した。この間に執権北条貞時や将軍久明親王主催の歌会にたびたび出席し、武士達に和歌連歌を教授し、鎌倉歌壇を隆盛に導いた。浄光明寺境内北側の藤ガ谷に住し、藤谷殿、藤谷黄門とも呼ばれた。「御子左家系図」では嘉暦3年(1328)に鎌倉で、「常楽記」では京都で薨じたとあり、のちに最大の支援者であった北条氏所縁の浄光明寺境内の一角に墓所が営まれ、今日まで同寺によって手厚く維持されてきた。
浄光明寺は、古義真言宗泉涌寺派の寺院で、亀ヶ谷坂、仮粧坂を押さえる泉ヶ谷の入り口部に位置する。建長3年(1252)、北条時頼・長時の発願により真聖国師真阿を開山として創建された。開基は6代執権の北条長時で、重時流北条氏の菩提寺である。はじめは念仏持戒の寺であったが、後に浄土・華厳・真言・律・天台・禅の兼学道場となり、中世鎌倉における仏教教学の中心の一つとなった。
足利尊氏の正室登子が(重時流)赤橋守時の妹に当たることから、足利氏との関係も深く、建武新政の際には成良親王の祈願所となり、足利尊氏・直義の帰依を受け、寺…

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