百済寺境内
ひゃくさいじけいだい
概要
百済寺境内は、滋賀県東部の湖東地域に営まれた天台宗の古刹で、中世に勢力をはった寺院である。平安時代末には天台末院としての地位を確立していたと考えられる。近隣一帯の寺領が経済基盤であり、寺内には北谷・東谷・西谷・南谷の四谷があった。文亀3年(1503)の焼失後、伽藍の復興が進み寺勢は拡大した。また兵乱に備えて境内の備えを固めるようになったが、それは近江国内の軍事拠点を整備したい近江守護六角氏の意向とも合致するものであった。永禄11年(1568)足利義昭を擁して上洛した織田信長によって六角氏が滅ぼされると、百済寺は信長の祈願所となった。元亀4年(1573)、信長は潜伏する六角義治を討つため近江に出陣、4月12日寺に火を放ち、全山は灰燼に帰した。当時の百済寺の繁栄の様子は、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの書簡にも記述されている。その後、寛永11年(1634)に亮算が入山してから復興が本格化し、彦根藩の援助もあって復興した。これまでの測量・発掘調査等によって、旧参道沿いに200近い坊及び堂跡と考えられる平坦地が広がっていることや、境内北側及び南側の尾根上に要害があること等を確認した。我が国中世の宗教史や政治状況の様相を知る上で重要である。