姫路城跡
ひめじじょうあと
概要
始め羽柴秀吉がここに城郭を営んだが、慶長5年池田輝政、播磨国に封ぜられ、同6年修造の工を起し、14年に竣功、姫路城の規模はここに成った。以後、本多、松平、榊原、酒井等の諸氏が更替して明治維新に至ったが、その間本多忠政は西ノ丸の櫓又は多門を増築するところがあった。姫山と鷺山とからなる丘陵に據り、これに麓の低地をとり入れて、営まれた城で、北、東、西の三面は急崖をなし、南は稍々なだらかで、両山の間に浅く広い谷を開いている。南を大手、東を搦手とし、西麓に沿うて南流する船場川が城地の西辺を限っている。
姫山の頂上部に本丸を置き、その南から西にかけて低く二の丸を配し、その間、山腹に階段状に小郭を点綴せしめ、鷺山の高所には西ノ丸を設ける。この一帶は城の中心部であって、谷をその入口にあてて菱の門を構え、内に三国堀を掘る。この中心部を守って姫山の東麓から鷺山の南麓にかけて低く三ノ丸を、これにつづいて背部の山麓に沿うて帶状の勢隠を設けている。この内部を土塁又は石垣をめぐらした略々梯形状の広い中郭を以て包み、更にその外部に外郭を設けている。本丸の北東麓に始まる内堀は螺旋状にめぐり、内郭を囲み、ついで転じて中堀となって中郭を一周し、その間外堀を派出する。その構想は巧妙である而して三棟の小天守を從える五重の大天守を始めとして数多の櫓、門、塀等は、三ノ丸を除いて略々旧態をその儘伝えて壮観であり、且つ塁々なる石垣は、堅固な郭の配置巧妙な通路堀の布置と相俟って、防備の厳重さを示すに十分である。これと共に中郭の土塁、石垣、堀等もまた概ね、旧観をとどめていて、車門、埋門、雕門等の如きは枡形の形態がよく保存されている。
即ち本城はその構成が優秀であるばかりでなく、近世における城郭の形態を伝える遺跡として稀有のものであり、その価値は極めて高い。
S54-6-047姫路城跡.txt: 姫路城跡は、昭和3年9月20日史跡指定ののち、2度追加指定し、昭和31年11月26日特別史跡に指定。
昭和54年、国道2号線改良工事の際発見された中ノ門枡形を形づくる若干の個所を追加指定し、土塁・門枡形部以南の中濠跡の部分を解除するとともに指定地域の境界を確定する。